2019年9月22日日曜日

「イージープロブレム」に関する研究に「主観的意識体験」が既に含まれている

御坊哲さんのブログ
https://ameblo.jp/toorisugari-ossan

で「意識のハードプロブレム」について見解を求められた(のかな?)のだが、チャーマーズにはあまり関心なかったし、だいぶ前にたまたまテレビに出てたのを見たのだが、”「意識」が「意識」を見て・・・”という無限進行みたいな話をしていたので、「あぁ、これはダメだ」と思ったのを覚えている。

意識の階層構造みたいなものは、あくまで仮説モデル・想定モデルであって、事実としてそんなものが現れているわけではない。多くの哲学者が想定モデルばかり見ていて事実として実際に現れている具体的経験を無視している現実・・・(システム理論関連の人たちもこういった傾向がある)

・・・そのあたりのことについては、以下のレポートでも説明している。

自己言及はパラドクスではない ~ ニクラス・ルーマン著・土方透/大沢善信訳『自己言及性について』(ちくま学芸文庫)、「訳者あとがき」(土方透著)の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report18.pdf

・・・話が逸れてしまったが、これまで「意識のハードプロブレム」に関して論じたこともなかったし、チャーマーズの書籍やら論文を読んだわけでもないので、今回はとりあえずウィキペディアを参考に考察してみたい。本当はチャーマーズの本かなにか読んだ方が良いのだろうけど、時間の無駄になってしまいそうなので・・・

ウィキペディア(意識のハードプロブレム)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%A0

・・・私は、次の二点(+1)について指摘してみたい。

(1)「イージープロブレム」で見逃されているもの
(2)「因果関係」とは何かという問題

おそらくチャーマーズが陥っている「意識の階層構造」的な想定モデルが、事実としての因果関係の問題を見誤らせているようにも思える。

実験者が見た脳、そして実験装置が示した波形やら何やらも、結局「主観的意識体験」(ウィキペディアの表現に従えば)であることに変わりはない。因果関係構築において、被検者が感じる感覚も、実験者が見るデータの値も、同列に扱われる事象なのであって、そこに階層構造的な要素はどこにもないのである。


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(1)「イージープロブレム」が既に「主観的意識体験」を含んでいる


「イージープロブレム」とは次のようなものだそうだ。

物質としての脳はどのように情報を処理しているのか、という形の一連の問題を指す(イージー・プロブレムにおいては、上向き矢印で表現されている部分は扱われない)。医学、脳科学、生物学の分野で現在なされている研究というのは基本的にイージー・プロブレムについてである。(ウィキペディアより)
・・・「上向き矢印」の問題とは、「ハードプロブレム」、「主観的な意識体験(クオリア)とは何なのか、それは脳の物理的・化学的・電気的反応とどのような関係にあるのか、またどのようにして発生するのかという問題」(ウィキペディアより)なのであるが、ここでイージープロブレムにおける研究において既に「主観的な意識体験」が含まれていることが見逃されてしまっている。

「物質としての脳」が「情報を処理している」ということは、結局、私たちの「主観的な意識体験」(特定の情報を処理した事実、例えばあるものを見て「リンゴだ」と判断・説明した事実)と呼ばれるものとの照合があって初めて理解できるものなのである(なぜこんな当たり前のことを多くの哲学者が理解できないのだろうか・・・)。

ウィキペディアに掲載されている「意識のやさしい問題」の図においては、

「刺激(入力)」⇒「脳」⇒「反応(出力)」

と説明されているが、それだけでは脳の電気的反応性しか説明できていない。それがどういった機能を有しているか、どういう働きをしているのかどうかは、その刺激や(電気的?)反応が起こっている状態と、その時、人間にいかなる感覚が生じているのか、その関連づけがあって、初めて「痛み」を感じる脳の部分、「不安」を感じる脳の部分、という同定が可能になるのである。


(※「主観的意識体験」とはあくまで対象と私とが別個にあり、私が対象を見て、それが私自身に「見えている」という世界観を前提としたものである。)


(2)「因果関係」とは何かという問題


科学的分析、科学理論構築とは、結局のところ因果的関連づけ、事象Aが生じたら事象Bが生じる、という経験、そしてその繰り返し(再現性)の追求である。

あるいは、A⇒Bという単純な因果関係でないとしても、特定の事象Bが生じるためにいかなる条件が必要なのかを問うているわけである。それが仮に量子力学と関連があろうとなかろうと、結局ある事象と事象との関連づけであることに変わりはない(いかなる論理であろうと事象どうしの関連づけであることに変わりはない)。

そして、忘れてはならないことは因果関係はア・プリオリではない、ということだ。

結局、私たちの経験として何らかの感覚が現れてきた、そしてその感覚が生じた原因やら条件を問うとき、別の何らかの経験との関連づけを試みるのである。

被検者の脳のある部分が活性化した⇒被検者に特定の感覚が現れた

そういった関連づけをしながら「原因」「条件」を特定していくのである。「原因」とはそういうものなのである。因果関係をいくら精緻化・細分化しても、結局は事象と事象との関連づけ以上のものにはならないのである。

「物質としての脳がなぜ主観的な意識体験を持つのか」(ウィキペディアより)という問いも、結局は、

物質としての脳の働き⇒人間に現れる特定の感覚

・・・として関連づけしていくしかない。結局イージープロブレムに収斂してしまうのである。

そしてどこまでも事象Aが生じたら事象Bが生じた・・・そういった繰り返し以上のものにはならない。そこに因果関係を生じさせる”何か”というものをいくら探しても見つかることはない。どこまでも事象と事象との関連づけの連鎖以上のものにはならないのである。



(3)扱われていない問題


そして、イージープロブレムに関する研究・実験において、実験者は被検者自身の感覚そのものを体験することはできない。あくまで被検者の自己申告、たとえば言語表現に頼らざるを得ない。

実験者は被検者の言葉や動き、行動を頼りに、その言葉と実験者自らの経験との関連づけから、その「主観的な意識体験」を理解していくしかないのである。(また、被検者に意識があるかどうかは、あくまで被検者の自己申告と実験者の観察による推論的理解で判断されるであろう)

そういった言葉と経験との関連づけが広く共有されているからこそ、上記のイージープロブレム的研究が成立するのである。しかし自らが思い浮かべる「青」と他の人の「青」とが同じかどうか確かめる術はない。しかし同じものを見て皆が「青」と答えることができるし、「青」という言葉とそれに対応する視覚的経験との関連づけが私にあり、その関連付けに基づいた様々な付随する事象やらとの関連づけが自らにあり、そういった経験則的知識と他者の言動に齟齬がない限りは、「青」という言葉と経験との関連づけが間違っていないと考えることができるのである。



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