レポート一覧(pdfファイルで公開しています)

これまでに作成したレポート一覧です。
引用される場合は、出典を明記してくださるようお願いいたします。


2022年


ラッセルのパラドクスに関して:「二階の述語論理」の問題点
・・・本稿は野矢茂樹著『論理学』(東京大学出版会、1994年)におけるラッセルのパラドクスに関連する論理の問題点を指摘するものです。
 二階の述語論理というものを構築するにあたって、「述語」あるいは「集合」という"言葉"を実体化させ、別の意味を与えて要素化するという、余計なプロセスが入り込んでいるためにパラドクスが生じてしまっている面があるのではないでしょうか。
 犬の集合は犬であって、犬が集合したからといって犬とは別のもの(述語や集合という”概念”)に変化するわけありません。  
 そして論理と現実とを突き合わせて齟齬が生じたのならば、変更を加えるべきは論理の方なのです。論理はあくまで現実世界の在り方、そしてそれに対する人々の一般的認識に根拠づけられているのですから。

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である
・・・実質含意のパラドクス・厳密含意のパラドクス、あるいはそれに伴う(池田氏の言われるような)"違和感"は、条件文における論理学的真理値設定、とくに前件が偽ならば後件が真でも偽でも全体として真となってしまう設定それ自体に誤りがあることからもたらされている部分があるのではないでしょうか。
 本稿では、池田真治著「哲学演習「論理学入門」補論」(2016年)を参考にしながら、実質含意、厳密含意、伴立について分析し、条件文の真理値についてより詳細に考察しました。

条件文「AならばB」は命題ではない?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report32.pdf
・・・『数学にとって証明とはなにか』(瀬山士郎著、講談社)を読んで、もともとあった条件文への違和感がさらに強まってしまったので、本稿でその問題点をまとめてみました。前件が偽ならば後件が真であれ偽であれ全体として真になるという、条件法の論理学的真理値設定が普遍性を持つという根拠をどこにも見いだせない、そしてその論理学的真理値設定が本当にトートロジーと呼べるのか疑わしい論理を生み出していることを指摘しています。論理学の専門家の方々からのご意見もいただければ幸いです。


2020年


ヒューム『人性論』分析:経験論における「経験」の位置づけについて
http://miya.aki.gs/miya/miya_report31.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編です。ヒューム理論における「経験」の位置づけ、「経験⇒原理⇒観念」という分析フォーマットの問題点を指摘するものです。経験がいかに知識や関係(の観念)をもたらすのかではなく、知識や関係そのものがいかに経験として現れているのかを示すことが経験論なのであって、それらをもたらす「原理」「原因」を問うたところで、一元的な回答を得ることなどできないのです。

ヒューム『人性論』分析:「存在」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report30.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「存在」に関するものです。存在に関しては、「存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じもの」というヒュームの言葉が既にその解答になっているように思えます。存在の有無(に対する信念)は究極的には知覚の有無にたどり着く。

 しかし、存在の信念の「原因」を問う過程でヒュームは思考の袋小路に入ってしまったように思えます。因果関係、そして同一性・恒常性に関するヒューム自身の誤解が、説明を混乱させているのです。

ヒューム『人性論』分析:「同一性」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report29.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「同一性」に関するものです。ヒュームは同一性も「知覚」であると説明しているにもかかわらず、一方で「万物は流転する」のような哲学的常識に縛られ、印象は常に変化・消失し、同じものは現れないという"思い込み"を取り払えないまま同一性について説明しようとして袋小路に入り込んでいるように思えます。
 しかし、私たちが「同じだ」と思うのは、ただ"端的に"そう思うのであって、「違う」「変化した」と"端的に"思うのと同じことなのです。

ヒューム『人性論』分析:「信念」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report28.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「信念」に関するものです。ヒュームは「印象⇒観念」という枠組みに固執するあまり、信念の問題における情念・情動的感覚の位置づけを見誤っている、そのため信念とは何か正確に説明できなかったと言えます。そもそも信念の問題は、「印象⇒観念」という枠組み、あるいは観念の「勢いや活気」というもので一律に説明できるようなシンプルなものではありません。

ヒューム『人性論』分析:記憶と想像の違いとは?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report27.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編です(前編はこちら)。因果関係を構成する印象・観念における、記憶の位置づけ、記憶と想像との違いについてのヒュームの説明の問題点を明らかにし、いかに修正すれば実際の具体的経験と齟齬なく説明できるのか論じています。

「統一的或る者」批判 ~西田幾多郎著『善の研究』第二編 実在の分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report26.pdf
・・・『善の研究』第二編 実在の分析です。純粋経験論の立場から言えば、「力」があって事象・現象の推移があるのではなく、現象・事象の推移がまずあって、そこから「力」というものが仮想されているということなのです。「力」を実体化しそれを経験の根拠づけに用いてはならない、「力其物」(さらには「作用其物」「意志其物」)というものは純粋経験として現れることがないからです。しかし西田は「統一的或る者」「統一力」という仮想概念により純粋経験を説明しようとしています。

規則が意味を成り立たせているのではなく、言葉の意味(言葉に対応する具体的経験・事象)がまずあって規則はそこから見出される:ヴィトゲンシュタイン的言語観への批判 ~ 橋爪大三郎著『「心」はあるのか』分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report25.pdf
・・・橋爪大三郎著『「心」はあるのか』(ちくま新書)の分析を通じて、橋爪氏の(さらにはヴィトゲンシュタイン的な)言語観の問題点を指摘するものです。経験の前に論理があるのではない、論理というものは経験から導き出されるものなのです。


2019年

理論があって経験があるのではなく、経験があって理論がある
~「観察の理論負荷性」の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report24.pdf
・・・科学哲学における「観察の理論負荷性」に関する議論の問題点を指摘したものです。具体的には①「観察」という行為における言語と経験との位置づけに関する誤認、②理論あるいは因果関係とは何か、経験におけるそれらの位置づけに関する誤認、という論点から分析しています。理論(因果)とはアポステリオリなもの、経験がまずあって理論はそれら経験の事後的因果構築により導かれるものなのです。


『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』第Ⅱ部の批判的分析
~意義・価値理念と事実関係、法則と個性的因果連関、直接に与えられた実在と抽象に関するヴェーバーの誤解
http://miya.aki.gs/miya/miya_report23.pdf
・・・『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)第II部(55ページ以降)、因果関係・法則に関するヴェーバーの見解、そして理念型に基づいたヴェーバーの方法論の問題点を指摘するものです。

言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析
・・・萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」(『哲学』第63号、日本哲学会、知泉書館、2012年4月、297~311ページ)の批判的分析です。萬屋氏は、ヒュームの示した経験論の手法を無視した上で、ヒュームの見解が私的言語批判を免れていることを証明するためにヒュームの説明を恣意的に引用・解釈しようとしているように思えます。そうではなく、経験論の手法に基づきヒュームの文章を検証した上で、私的言語批判そのものが無効であることを示す必要があるのだと思います。

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)における「関係」に関する分析です。経験が(経験則としての)知識として成立する際に「関係」というものは避けて通れません。経験どうしの「関係」とはいかなるものなのか、「関係」を経験論として説明するとはどういうことなのか、ヒュームの見解を批判的に検証することで明らかにしています。


2018年

“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である
~『純粋理性批判』序文分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf
・・・『純粋理性批判』(カント著、篠田英雄訳、岩波書店)の序文の分析です。カントの言うア・プリオリというものが実のところ経験によって「必然性」を与えられているものであること、つまりア・プリオリ自体が無効であることを説明するものです。序文(と少し緒言も)のみの分析ですが、カント理論における根本的問題の指摘はできていると思います。(※ 後日、緒言分析も付録として追加しました)

経験とは?経験論とは?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report19.pdf
・・・三谷尚澄著 「マクダウエルはセラーズをどう理解したのか? : 「みえるの語り」の選言主義的解釈をめぐる一考察」『人文科学論集. 人間情報学科編』44、信州大学、2010年、1~20ページ
三谷尚澄著「経験論の再生と二つの超越論哲学 -セラーズとマクダウエルによるカント的直観の受容/変奏をめぐって」『哲学論叢(2011)』38、2011年、45~60ページ
の分析です。「知覚の哲学」に関する議論の前提を問うものです。また三谷氏・セラーズの言う「経験論」とは実質的に何なのかについても述べています。

自己言及はパラドクスではない ~ ニクラス・ルーマン著・土方透/大沢善信訳『自己言及性について』(ちくま学芸文庫)、「訳者あとがき」(土方透著)の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report18.pdf
・・・ニクラス・ルーマン著・土方透/大沢善信訳『自己言及性について』(ちくま学芸文庫)、「訳者あとがき」(土方透著)における問題点を指摘したものです。具体的事象の関係を抽象概念どうしの形式論理的関係にすり替えることで、あたかもパラドクス・循環があるように見せかけているだけ、具体的に事実を検証すればそこにパラドクスなどどこにもないことが明らかになると思います。

哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
・・・森岡正博著「独在今在此在的存在者生命の哲学の構築に向けて(9)」『現代生命哲学 研究』第6号(2017年3月):101-156、の時間論についての分析です。哲学における時間論でしばしばみられる二つの誤謬について指摘した上で、森岡氏の提唱される「自己出産モデル」の問題点および意義について考えるものです。

西田がモツァルトの経験について論じるとはいかなることか
~西田幾多郎著『善の研究』第一編第四章「知的直観」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report16.pdf
・・・西田幾多郎著『善の研究』(岩波文庫)の第一編第四章「知的直観」の分析です。主に、西田が具体的経験の事実を超えた因果推論(思慮分別)と純粋経験とを混同していることを指摘したものです。
 最後に、純粋経験に基づく哲学を言語表現するということはいかなることなのか、他者に向けて文章表現するということはいかなることなのか、そういった哲学という学問が有する根本的問題についても議論しています。

「意志」とは「言葉」 
~西田幾多郎著『善の研究』第一編第三章「意志」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report15.pdf
・・・西田幾多郎著『善の研究』第一編第三章「意志」の分析です。とにもかくにも、西田は純粋経験における言語の位置づけを全く無視してしまっているということです。


2017年


西田は、思惟のプロセスが純粋経験であることと、思惟の 「正しさ」が純粋経験により根拠づけられることとを混同している 
~西田幾多郎著『善の研究』第一編第二章「思惟」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report14.pdf
・・・西田幾多郎著『善の研究』第一編第二章「思惟」の分析です。第二章も様々な論点が取り違えられたり混同されたりして、論理が錯綜しています。論点の絡みを解きほぐすことで、純粋経験における思惟の位置づけが明らかになると思います。

純粋経験から「離れる」ことはできない
~西田幾多郎著『善の研究』第一編第一章「純粋経験」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report13.pdf
・・・西田幾多郎著『善の研究』第一編第一章「純粋経験」の分析ですが、実質的に第一編全体の論点をほぼ網羅していると思います。ここにおける西田の最大の間違いは、純粋経験を“状態”と見なし、そこから「離れたり」、純粋経験の状態が「破壊」されたり、そういう視点から捉えてしまったことだと思います。それゆえに理屈が合わなくなったところを”背後にある”想定概念で苦し紛れに辻褄合わせをせざるをえなくなってしまったのだと言えます。

純粋経験には「意識」も「思考」も「作用」も「証人」もない
~「意識」は存在するのか(W.ジェイムズ著)の批判的分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report12.pdf
・・・W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』(岩波文庫)第一章「意識」は存在するのか(9~45ページ)の分析です。純粋経験に関するジェイムズ理論の問題点を指摘した上で、実際の具体的経験・純粋経験に基づき意識・思考、さらには「作用」とは何なのかを明らかにしています。

「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf
・・・竹田青嗣著『プラトン入門』(ちくま新書)において、竹田氏が呈示された「概念の実体化の錯誤」というキーワードを軸に、哲学的思考の問題点について考察するものです。「概念の実体化の錯誤」とは何なのか、より詳細に検討していくことで、竹田氏ご自身の見解、さらにはプラトン・ソクラテスの見解も「概念の実体化の錯誤」に陥ってしまっていることが明らかとなって来ます。

純粋経験の主客未分とは単なる経験の事実、フィクションを用いた思考実験で検証する事柄ではない
~森岡正博著「人称の存在しない世界 「主客未分」再考 」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report7.pdf
・・・森岡正博著「人称の存在しない世界 「主客未分」再考 」 季刊『仏教』no.8、 1989年7月、119~126ページ(http://www.lifestudies.org/jp/ninsho.htm )の分析を通して純粋経験の主客未分とは何なのか明らかにしています。2016年に書いたレポートを大幅修正したものです。


2016年


来栖哲明著「西田幾多郎『善の研究』における純粋経験について」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report10.pdf
・・・来栖哲明著「西田幾多郎『善の研究』における純粋経験について」『山口大学哲学研究』16巻(2009年)1~18ページ(http://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/file/16965/20101213090347/C070016000001.pdf)を分析しながら、純粋経験とは何かについてより詳細な説明を加えたものです。時間や思考とは何か、ということについても論じています。

「場所の論理」は純粋経験からの逸脱、西田哲学の後退である
http://miya.aki.gs/miya/miya_report9.pdf
・・・満原健著「西田幾多郎による志向性理論批判」『フッサール研究』第12号(2015)51~65ページ(http://www2.itc.kansai-u.ac.jp/~t980020/Husserl/Vol_12_2014/04_Mitsuhara.pdf)を分析したものです。西田幾多郎、そしてフッサールの方法論のブレ・基本的原理からの逸脱が恣意的仮説の積み重ねを生み出していることを指摘しています。

志向性批判
http://miya.aki.gs/miya/miya_report8.pdf
・・・次田憲和著「志向性の論理」『哲学論叢(Jahrbuch fur Philosophie)』第22号,京都大学. 哲学論叢刊行会,哲学論叢刊行会,1995 p36~48.( http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24570/1/2204.pdf )を批判的に分析した内容です。要するに「作用(体験)」というものなどどこにもないということです。


2014年


明証性はエビデンスではない~「現象学的明証性とエビデンスをめぐって」分析~
http://miya.aki.gs/miya/miya_report6.pdf
(PDFファイル、約330KB)
・・・西研氏のホームページ( http://www007.upp.so-net.ne.jp/inuhashi/ )に掲載されている、「現象学的明証性とエビデンスをめぐって」(2012年)を分析しながら、西氏の明証性に関する認識の問題点を明らかにするものです。

欲望と因果関係 ~『システムにとって意図とは何か』の分析を中心に~
http://miya.aki.gs/miya/miya_report5.pdf
(PDFファイル、約294KB)
・・・前田修吾氏の卒論『システムにとって意図とは何か』(1999年)(http://shugo.net/thesis/)の分析をとおして欲望と因果関係についてより深い考察を試みたものです。拙著「感情・欲望、意識・自由という概念の再検証~『フロイト思想を読む』分析を中心に」の欲望・因果関係の分析をさらに進めたものでもあります。


2013年


価値・理念について議論するとはどういうことなのか
~「なんのための」社会学か? の批判的検証を中心に
http://miya.aki.gs/miya/shakaigaku1.pdf
(PDFファイル、だいたい441KBです)
・・・西研氏のウェブサイト( http://www007.upp.so-net.ne.jp/inuhashi/ )中に掲載されている論文、「なんのための」社会学か? ( http://www007.upp.so-net.ne.jp/inuhashi/nan.htm )を批判的に検証しながら、同時に『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳、岩波書店)前半部分における問題点(社会科学と価値・理念との関係)を明らかにするものです。
(さらに同時に、竹田現象学における”欲望相関性””関心相関性”の間接的批判になっていると思います。)
ヴェーバー研究で見落とされてきた、盲点かもしれません。

『これが現象学だ』検証
http://miya.aki.gs/miya/genshogaku3.pdf
(pdfファイル:630KBくらいあります)
・・・『これが現象学だ』(谷徹著、講談社現代新書、2002年)の批判的分析です。現象学におけるエポケーの不徹底を検証し、その上で厳密に直接経験を見直してみれば、哲学が扱ってきた難問、「論理とは?」「意味とは?」「時間とは?」「空間とは?」に対する答えがおのずと明確になってくる、ということを示しています。

第Ⅲ章の「論理の根拠」は、論理学の人たちにもぜひ読んでもらいたいです。
第Ⅴ章3項の「記憶とは?」は、これまでおそらく誰も気づかなかった視点だと思います(「記憶」は直接経験としては体験されていない、ということなど)。自分ではかなり画期的な内容だと思っています。『これが現象学だ』著者の方からのコメントがほしいところですが・・・


2012年


感情・欲望、意識・自由という概念の再検証~ 『フロイト思想を読む』分析を中心に
http://miya.aki.gs/miya/genshogaku2.pdf (PDFファイル: 408KB)
・・・『フロイト思想を読む』(竹田青嗣・山竹伸二著、NHKブックス)および『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)について検証を加えながら、現象学の問題点を明らかにし、新しい見解を示しています。

「『現象学入門』検証」をさらに進めた内容です。「欲望」「感情」「思考」「選択」「私」「意識」「自由意思」「因果関係」についての既存のイメージを覆す試みでもあります。

『現象学入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/genshogaku.pdf
(PDFファイル: 430KB)
・・・『現象学入門』(竹田青嗣著、NHKブックス)の分析です。まだ不完全ではあるものの、私独自の見解が見え始めていると思います。

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...