2025年6月4日水曜日

永井均氏の純粋経験の理解に対する批判的分析~『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』の分析を通じて

 永井均氏の純粋経験の理解に対する批判的分析

~『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』の分析を通じてhttps://drive.google.com/file/d/143qCokzmxXqcso6ZotzuTMHxHSSYNM2Z/view

(miya_report51.pdf - Google ドライブ)


・・・できました!


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 本稿は、永井均著『西田幾多郎 <絶対無>とは何か』(日本放送出版協会、2006年)の批判的分析である。本文中の引用部分は特に指定のない場合上記からのものである。

 本稿における主要な論点は以下の2点である。


(1)言葉で把握するとそれは純粋経験ではない(西田自身もそう考えているように思える)という考え方は純粋経験の事実とは違う。そうではなく、純粋経験、つまり経験をありのままに見るときに”言語表現のあり方にひきずられるな”ということなのである。

 たとえば「私は考える」という表現は「私」というものがあって初めて「考える」ことができるように捉えられるが、純粋経験の事実、つまり具体的にはいかなる経験が「考える」「思考する」ときに現れているのかを見てみれば、なにがしかのイメージやら見えているもの感じているもの、あるいはそこから浮かんでくる言葉やら数字やら数式やら別個のイメージやら・・・といったものであって、そこに「私」あるいは”思考する主体”や”作用”といったものは具体的経験として現われてはいないのである。

 作用というものも具体的経験として現れてはこない。あるのは事象の”変化”であって”作用”ではない。”作用”とはそれら事象を因果的に理解しそれらの変化を説明するために設けられた考え方なのである。つまり経験の前に作用があるのではなく、まずは経験ありきでそこから作用という概念が導かれるのだ。この順番を取り違えてはならない。

 また「意識」という言葉にも注意が必要だ。「意識そのもの」は具体的経験として現れては来ない。客体として認識される人間(あるいは動物)が知覚経験を受け取っている状態のことを「意識がある」と表現しているのであって、「意識そのもの」を受け取っているのでもないし「意識」という存在物や知覚経験があるのもないことは心に留めておく必要がある。

 「心」については西田も「心そのもの」はないと『善の研究』で説明しているとおりである。私は「心ある行為」や「心が優しい」とかいう表現に対して何らかの具体的状況などを挙げることはできる。しかし「心そのもの」は終ぞ見つけることはできないのである。

 これが純粋経験の主客未分(というか”主”がない)なのである。”統一”というか繋がり合うものは、主客ではなく、あくまで言葉と知覚経験、言葉と言葉、言葉とイメージ・・・といった具体的経験どうしなのだ。西田はここを取り違えている。


(2)ほとんどの哲学理論において言えることであるが、「私」あるいは何らかの主体があるから知覚経験を受け取れる、思考ができるといった一般的な因果的理解をエポケーできていない。それはあくまで様々な経験を因果的に結び付けた上で導かれる経験則的理解なのだ。

 まずは経験があって、それを受け取る「私」「自己」「主体」というものは事後的・因果的に導かれるのであって、経験の”前”に「私」「自己」があるのではない。(純粋)経験とは理由付けや因果的説明など関係なしにただ”現れる”ものである。理由やら因果的説明はそれら経験を事後的に繋ぎ合わせた上で導かれるものなのだ。

 しかし多くの哲学者たちは「私→経験」といったフォーマットをエポケーすることができず、「(観念的な)私→経験→(客観的存在としての)私」といった理解をしてしまう。経験していないのに絶対的経験としたり、超越論的主観性といった”想像的概念”を作り出したりすることで正確な事実認識を阻害してしまっているのだ。経験していないものは経験していないし、対象化できないもの(あるいは対象化されると予測さえできないもの)はナンセンスなのである。

それゆえに「私が私を見る」とか「意識が意識を見る」といったような無限進行的・”メタ的”といった説明になってしまうのだ。純粋経験の事実を顧みればこのような事象は現実として現れてなどいない。ここを見抜くことが純粋経験の主客未分を理解することなのだが、残念なことに西田自身が気づいておらず、それゆえ場所の理論という間違った方向へ進んでしまったのだ。


<目次>  ※()内はページ

1.純粋経験に「主体」はないが、「私」は存在している (3)

2.言葉を除外するのは純粋経験の恣意的な分類、純粋経験の主客未分に反する考え方 (6)

3. 対象化されるからこそ主語にも述語にもなりうる (8)

4. 「自己が自己に於いて自己を見る」と思うのは純粋経験の主客未分を理解していない証左 (9)

5. 抽象概念であろうと固有名詞であろうと言葉の意味はそれに対応する経験である (13)

6. 他者との相互理解がいかになされているかは哲学者でなくても説明できるが“原理的”には説明できない (17)


〔付録〕西田の重大な取り違え (20)

(1)「統一」に関する取り違え

(2)純粋経験の「一事実」から「他の事実」への「変化」を、「純粋経験を離れる」と誤認してしまった

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