2019年4月20日土曜日

科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法

小口峰樹著「知覚は矛盾を許容するか?」『Citation Contemporary and Applied Philosophy (2014)』5、1016~1032ページ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/200776/1/cap_5_2.pdf

・・・に関して、私が言いたいことは次のとおりである。
(3章構成にしようと思っていたのですが、これで完結しました。)

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1.そもそも「概念」とは何なのか


この問題については、

Ⅰ.知覚・信念とは?
https://keikenron.blogspot.com/2018/11/blog-post_4.html

・・・で説明した。


2.矛盾とは言葉と経験との関係においてはじめて現れるもの


「ある対象は運動し、かつ同時に、運動していない」(小口氏、1024ページ他)というのは単なる言い方の問題であって、実際に経験としては動いているのである。その上で過去の経験によってもたらされた”経験則”として錯視というものがあるということを知っている、それが錯覚であるということを知っている、それだけのことである。

そもそもが知覚が矛盾を含むということはありえない。矛盾とは「四角い三角」のように経験(想像も経験)として現れることのないもの、言語表現が知覚経験(あるいは心像やらも)と結びつけられることのないものなのである。「滝の錯視がもつ矛盾した内容」(小口氏、1021ページ)という議論の前提そのものがおかしいのである。
「ある方向への運動が起こっている」という情報と「位置変化が生じていない」という情報がある物体のもとへ統合されたとしても、それぞれの情報は互いの内容について含意を有しておらず、それゆえ知覚経験の内容としては矛盾していないということになる。それらの情報が矛盾するのは、当該の知覚内容が知覚判断として信念体系に組み込まれ、「運動は必ず位置の変化をともなう」という背景的な信念と組み合わされたときである。 (小口氏、1028ページ)
・・・という小口氏自身の説明が、上記の私の説明を裏付けているともいえる。「知覚判断」とは要するに知覚の言語表現である。言語表現されたとき、はじめて「矛盾」というものが現れる。知覚経験にそもそも「矛盾」というものはない。そして「背景的な信念」とは要するに「経験則」のことである。新たな経験により経験則が覆されるか覆されないか、ただそれだけのことである。

そもそもが「ある対象は運動し、かつ同時に、運動していない」という言語表現を、知覚経験として取り扱うこと自体おかしいのだ。

西田とジョンストンによる運動残効を用いた実験研究(小口氏、1023ページ)は、「運動残効において生じる見かけの運動にともなって、その運動速度から計算されるよりは微弱なものであるが、同時に見かけ上の傾きの変化が誘導される」として「運動残効において、順応方向とは逆の運動だけではなく、対象の位置(この場合は帯模様の傾き)の変化も誘導される」という経験が記録されただけであって、経験以上のものが見出されたわけではない。

「滝の錯視においても同様に、岩は完全に同じ位置に見え続けるのではなく、多少なりとも位置の変化をともなうように見える」(小口氏、1023~1024ページ)というものを実験によってわざわざ実証する必要もない。実際に動いて見えるものは動いて見えるのであって、ただその経験を追認しただけのことなのだ。別に「運動残効の速度から推定される位置の変化と見かけ上の位置の変化とのあいだにはなお食い違いが存在」(小口氏、1024ページ)することは、「運動残効における運動内容と位置内容のあいだには依然として矛盾した関係が含まれている」(小口氏、1024ページ)ことではないのである。


3.科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法経験により脳細胞の働きを根拠づけることはできるが、脳細胞の働きから経験を根拠づけることはできない)

多くの生物の感覚処理システムでは、細胞間に階層的な処理構造を導入することで、こうした観察者の視点に相当する仕組みが導入されている。(小口氏、1025ページ)
・・・そもそもがこういった階層構造は、私たちの具体的経験との対応関係により示されるものである。例えば特定の脳細胞の反応と「45度の線分」という視覚経験との対応関係により、その細胞が「傾き選択制細胞」と特定されている。
マッセンは、信念や判断に至る以前の初期知覚過程において、 すでに入力情報に対して概念的な分類が行われていると考える。感覚システムは刺激駆動型のシステムであるが、単に外界からの入力情報を受動的に処理しているのでなく、ある情報と別の情報とを同じカテゴリーのものとして扱うという分類活動を行っている。(小口氏、1024~1025ページ)
・・・これについても、まずは「同じだ」と判断された事象が経験としてまず現れており、それと脳細胞の働きが関連づけられ、その一致が認められたのである。

見誤ってはならないことだが、同じ脳細胞が反応するから「同じ」なのではない。「同じ」と同定できた事実がまずあって、その経験の事実と脳細胞の反応(これも実験による観測データとしての経験)との対応関係(因果関係)として理論化されるのである。「同じ」という判断が先んじることなしに、脳細胞の働きの規則性というものが同定されることはありえないのである。

「知覚経験が脳内の分類処理の過程を経て可能になる」(小口氏、1027ページ)という見解は、まず知覚というものが具体的経験として現れており、その経験と脳細胞の反応との因果関連が導かれた上で、脳細胞の働き⇒知覚、という因果関係が構築されているのである。

何が正しくて何が間違っているのか、それは脳細胞の反応により示されるのではない。まずは経験に基づく事実把握が先んじているのであって、その事実把握に基づいて脳細胞の働きが同定されている。

小口氏は一連の実験、および実験による因果関連の把握の過程、つまり科学的実験・研究過程が、いかに成立しているのか、細胞と同定される過程とはいかなるものか(実験者が何をもって「傾き選択制細胞」を同定しているのか)、因果関係とは何か、そういったものの検証をすっ飛ばして、科学実験の結果を哲学の根拠としてしまっているのだ。

科学理論は哲学の根拠にはなりえない。科学的手法の根拠を示すのが哲学の役割なのである。科学理論から経験を説明するのは、科学理論構築の過程を無視しているからこそできるのであって、理論構築過程(実験や観察)を含めれば、それが”循環論法”に陥っていることが明らかとなるのである。


4.具体的経験として現れているものを脳の働きにより後付けで説明したにすぎない


突然目の前に何か飛んできたらいやおうなしに目に入るし、白いお米の中に色の赤いうめぼしが入っていれば勝手に目に飛び込んでくる。名前を知らなくても目に入って来るものは入って来るのである。

上記マッセンの研究を採り上げるまでもなく、具体的経験として目の前のものを見分けているのであって、その具体的経験を脳の働きとして後付けで根拠づけたにすぎないのである。


5.問題はその”所与”として与えられた個物が何であるか、その感覚的経験と言語との繋がりが「正しい」のかどうか


具体的に飛び込んできたその視覚的経験自体が”所与”なのであって、その視覚的経験を「リンゴ」と呼んだとき、それが「正しい」のかどうか「間違い」であるのかどうか、そこが問題なのである。

脳の情報処理能力を説明したところで、そこの問題は全く解決されていないのだ。たとえば脳が処理して区別した視覚的情報と脳内の言語野とが繋がったという観察が実験によってなされたとしても、それもやはり(そこに見えたものを「リンゴだ」と思ったという)具体的経験の後付け的説明であるにすぎず、その把握(それが本当にリンゴなのか)が「正しい」のか「間違い」なのか、その問題はやはり解決されていないのである。

つまり小口氏の分析の方向性は”所与の神話”の議論とずれたものとなってしまっているのだと言えよう。



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