ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
・・・で既に指摘したことであるが、ヒュームは因果関係の「原因」を問うてしまっている。経験論における「経験」の位置づけをヒューム自身が見誤っているように思えるのである。
一つの対象の存在から他の対象の存在を推理できるのは、ただ「経験」によってだけである。この経験の本性というのは次のようなものである。まず、ある一つの種類の対象が存在した実例に、かつてしばしば出会ったことを思い出す。また、対象の他の種類に属する個物がいつもそれらに伴い、しかも、それらに対して近接と継起の一定のあり方を保って存在していたことを思い出す。・・・(中略)・・・それにまた、過去のすべての実例で両者の間に恒常的な相伴があったのを思い起こす。そのとき、もはやこれ以上こだわらずに、われわれは炎を原因、熱さを結果と呼び、一方の存在から他方の存在を推理するのである。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、53~54ページ)・・・一見もっともな説明のようにも思えるのであるが、ここにヒュームの「経験」に関する誤解が入り込んでいるのである。それは、推理したことが「経験」であって、それはそのまま経験として受け取ること。ヒュームはその「経験」の「原因」を問うてしまっている。”なぜ”推論したのかを問うてしまっているのだ。
「なぜ」推論したのかその「原因」を「推論」したところで、問いの無限ループに陥ってしまうだけである。そもそも推論が「常に正しい」必要がどこにあるだろうか? 私たちは恒常性があろうとなかろうと推論し、その推論が正しかったり間違ったりする中で、自らの経験則を更新していくのである。
推論が「正しい」のか「客観性」を持つものなのか、それを確かめるとき、はじめて「恒常性」(=再現性)が求められているのである。
推論をしたとき、他の人に「本当に正しいのか?」と聞かれれば、過去にそうだったろうとか、今からそうなるから見ておけ、とか・・・あるいはある学者が「過去」に書いた本を見せて「ほら、こうなるという事例が既に示されている」とか、具体的事例として、実際に起きていることを示すのである(本は過去に書かれているけれども、読んだ人にとっては新たな経験であるともいえる)。
また、上記の拙著で触れたように、因果推論に究極的な根拠を与えようとしても無理、「これから雨が降るだろう」という推論は、実際に雨が降って初めてその「正しさ」が認められるのであって、いくら過去の事例を集め根拠づけしたところで、実際に雨が降らなかったら「間違い」であることは変わらないのだ。
経験が観念を生み出すのは知性によるのか、想像によるのか、すなわち、移行をなすよう規定するのは理性なのかゃ、それとの知覚のある連合、つまり自然的関係なのか、ということである。(ヒューム、54ページ)・・・”観念が生み出された”こと(つまり心像が現れたこと)が「経験」なのである。ここでもヒュームは因果推論の「原因」を問うてしまっているのである。
かりに蓋然的な推論に少しも印象が混じっていなければ、その結論はまったく架空のものとなる(ヒューム、55ページ)・・・これも「推論した事実」と「推論が正しいと確認されること」とを混同しているともいえる。推論の「結論」は印象、つまり具体的感覚経験により確認されることで「正しい」と認められるのである。推論が”架空”なのは当然である。
ヒューム自身が述べているように、「推論」とは未だ経験として現れていない事象について、予想することである。まだ「正しい」と確かめられていないことなのであるから。
対象がともに感覚機能に現れていて、同時に関係もそこに示されているときには、これを推論と呼ぶよりはむしろ知覚と呼ぶ。(ヒューム、42ページ)
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