実際、哲学者たちが、心から独立な対象についての信念を確立するためにどんなに納得のゆく論証を示しうるのだと思ったところで、明らかに、こうした論証を知るのはほんのわずなか人だけであって、子供や農民、それどころか人類の大部分が、ある印象には事物を属させ、ほかの印象にはそれを否定するようになるのは、そうした論証のためではないのである。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、97ページ)・・・こういった、哲学者にとっては身も蓋もない事実から目を逸らさない姿勢にはとても共感するのである。根拠を”論証”に求めるのではなく、あくまで”経験”に求める、その試みが完全に成功していないとはいえ、そういう姿勢を哲学という学問において明らかな形で見せたのはやはりヒュームが最初なのではなかろうか?(ヒューム以前の経験論者の研究をちゃんと調べたわけではないから、ここはあくまで推測なのだが)
そして上記の説明に補足すれば・・・哲学者たちが「納得のゆく論証」を示したところで、その哲学者自身にとっても「ある印象には事物を属させ、ほかの印象にはそれを否定するようになるのは、そうした論証のためではないのである」。
ソクラテスの時代から、哲学というものは、把握することのできないイデア的なものを提示した上で、お前それについて知らないだろう、と「無知の知」という”逃げ道”を用意する、どこにも現れることのない想定概念(言葉だけでそれに対応する印象・観念が現れないもの)を持ち出し、私たちはそれを知らないことを自覚しろと言われても・・・最初からそんなものどこにもないのである。
抽象概念をやたら作り出し、事実関係において簡単に説明できるものを、無理やりパラドックスに陥らせる論理・・・
具体的言葉と経験を、抽象的な言葉に変換すれば客観性・公共性が担保されるかのような論理の飛躍・・・
私見ではあるが、哲学は言葉の使い方の誤り、あるいは抽象概念を用いた論点のすり替えが大きな部分を占めているようにも思えるのだ。具体的問題は具体的問題として解決していくものであって、抽象概念を使ったからといって、普遍的な回答が得られると思ったら大間違いなのである。
抽象概念といったところで、その言葉に対応する経験は、やはり具体的・個別的経験なのである。
<関係するレポート>
「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証
http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf
自己言及はパラドクスではない ~ ニクラス・ルーマン著・土方透/大沢善信訳『自己言及性について』(ちくま学芸文庫)、「訳者あとがき」(土方透著)の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report18.pdf
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