2019年3月8日金曜日

「経験を額面通りに」捉え「抽象的な話をすることと混同」しなければ答えは出てくる

大厩諒著「F・H・ブラッドリーによる関係の否定とジェイムズ哲学
―純粋経験論から多元的宇宙論への発展の軌跡―」2016年度林基金成果報告書
http://philosophy-japan.org/wpdata/wp-content/uploads/2018/01/wakate_5_2016_oomaya.pdf

についてなのだが・・・
ブラッドリーの批判の要点は、「関係」という概念は矛盾を含んでおり、関係項同士を結びつけられないというものである。一方で、関係を、関係項から独立したひとつの実在だとすると、関係と関係項とをつなぐ新たな関係が必要になり、無限後退に陥る(外的関係の不可能性)。他方、特定のものと結びつくことがその関係項の内部構造によってもたらされていると仮定しても、何が内部構造を特定のものと結びつけるのか依然として不明であり、加えて、関係項の内部構造同士が、どのように「ひとつの」関係項の内部構造として統一されうるのかも不明である(内的関係の不可能性)。こうして、ブラッドリーによれば、関係は、どのように考えられたとし ても存在論的な紐帯ではないとされる。(大厩氏、1ページ)
・・・このようなジェイムズへの批判に対し、大厩氏は
こうした関係否定の議論は、ジェイムズの純粋経験論にとってまさに致命的である。なぜなら、それは、一片の純粋経験が数的同一性を保ったまま複数の脈絡で異なる機能を果たすことを不可能にし、物心の区別を同一の純粋経験の振る舞いの違いとして説明しようとするジェイムズの企図を根底から覆しかねないからである。それゆえ、ジェイムズは、関係項の独立性と自己同一性とを保持しつつ、ほかの項とも結びつくことのできる関係の可能性を擁護する必要があった。 (大厩氏、1~2ページ)
・・・と説明されている。しかしこれではまさに・・・
この経験をしっかりつかむということは、それを額面通りにとって、過大視も過小視もしないということを意味する。そしてそれを額面通りにとるとは、何よりもわれわれがそれを感じるままに把握するということであり、それについて抽象的な話をすることと混同しないということである。連接的経験についての抽象的な話をするとき、われわれは二次的な概念を創案することになり、それによってその経験の示唆するところを中性化し、現実の経験が理性的に可能になるという幻想に再び舞い戻るのである。(ジェイムズ『純粋経験の哲学』伊藤邦武編訳、岩波文庫、55ページ)
・・・「経験を額面通りに」とらず「抽象的な話をすることと混同」しているのではなかろうか。

ジェイムズがブラッドリーの批判に上手く回答できなかったのは、ジェイムズ自身が「抽象的な話」に傾きがちであったためではないかと思う。

「純粋経験」という言葉が一人歩きし、あたかもそれが一つの実体としてあるかのような議論をしてしまっていないだろうか? (概念の実体化の錯誤) 「純粋経験」とは呼んでいるものの、具体的経験としては、実際に見えているもの、聞こえているもの、感じているもの、(そして言葉を聞いたり見たり喋ったりした事実も経験である)である。「純粋経験」を実体化して、その「関係」を抽象的に議論するのではなく、そこに並んで見えているリンゴとバナナについて「関係」とはいかなるものなのか、具体的に議論しなければならないのである。

要するに、ブラッドリーに対し、ジェイムズは様々な具体的関係が、具体的経験としてどのように現れているのか、それを示せばよいだけだったのだ。

関係というものは様々である。ヒュームが述べたように「同一性」やら「類似」やら「継起」やら「因果関係」やら・・・それらをただただ具体的に示せばよいだけだったのだ。



**********************

竹中久留美著「ヒュームの「意味論的見解」とは何であるのか」『東洋大学大学院紀要』48(文学(哲学))、東洋大学大学院、2011年、15~36ページ
https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/7977.pdf

・・・の前半部分について、気づいたことを述べたみたい。(後半部分の分析はこちら)拙著、

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

・・・で既に述べたが、ヒュームの「複雑観念」は全く別物が混同されているので、そこを見極めないとおかしな議論になってしまう。竹中氏も、その混同が生み出す”不整合”を、わざわざ”整合的”に説明しようと試みているようなのだ。そのあたり大厩氏と共通するものがある気がする。
第三巻「道徳についてOf Morals」第二部「正義と不正義についてOf justice and injustice」第二節「正義と所有の起源についてOf the origin of justice and property」 の「それは、言語が約定promiseなしに人間の黙約convention によって漸次に確立される のと同様である」(T.3.2.2.10)という一文にある「黙約」が着目される場合には、ヒューム は意味の規約説あるいは使用説をとるとされることもある。(竹中氏、15ページ)
・・・これは、「意味の規約説」「意味の使用説」云々の話というより、”言語の起源”を問うてしまったヒュームの”ブレ”と見たほうが良いのではなかろうか。

”言語の起源”とは、客観的時間を前提とし、出来事をそれこそ”因果関係”で結びつけた上で導かれるものである。

哲学は、「起源」とは何かについて問う(そして答える)ことはできるが、それぞれの事柄における「起源」を明らかにするものではない。この違いを混同してはならないだろう。
一般的には、あるいは哲学史的には19世紀に「言語論的転回」によって意味の観念説が否定され、それに代わる意味論の立場として意味の規約説、使用説が提起されてきた。(竹中氏、15ページ)
・・・ここで、果たしてヒュームの言う「観念」は”意味の観念説”における「観念」と同じものを指しているのだろうか? そこも問うてみる必要がある。(そしてヒュームの「観念」という用語の用い方にもかなりブレがある)

そして、観念結合の問題と、言葉の意味の問題とを混同しないことである。言葉の意味とは何か、ということは観念結合とはいかなるものなのかを説明する前提となるが、観念結合が言葉の意味の問題を説明するわけではないのである。
単純観念が複雑観念になり、さらに語に結びつくときに、観念の階層から語の階層へと高階化し、そして語は改めて単純観念として働きださなければならないということが帰結される。そこから、語に対する意味としての観念の想起と、その使用の局面が一致することが見出されると考える。そして、それこそがヒューム自身が意図しなかった彼の「意味論的見解」であるということを提示する。(竹中氏、16ページ)
・・・この見解は、「複雑観念」「単純観念」との関係が本来はいかなるものなのかを見逃しているために生じている。以下に示す①と②は、ヒュームはともに「複雑観念」としているが、実のところ全く別物なのだ。


例えば、「ある色」、「ある味」、「ある香り」 という単純観念が結合して「リンゴ」という複雑観念になる。(竹中氏、19ページ)

観念の連合を生み出す性質 には「類似resemblance」、「近接 contiguity」、「因果causation」の三種類があるとする。(竹中氏、19ページ)
・・・私は、拙著

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

・・・で、①「リンゴ」という”複雑観念”と、②「類似」「近接」「因果」における”複雑観念”とは全く別の事柄であることを述べた。「リンゴは」同一の印象・観念が複数の言葉で示される場合、「類似」「近接」「因果」(あるいはその他)は、複数の観念どうしの関係(それぞれが単純印象・観念、複雑印象・観念どちらでも良い)なのである。

つまり、
 もし、複雑観念としての「パリ」で、観念連合の例にある「パリ」を読み取ってしまうと、 Costaの表現のような「複雑観念を連合させる」という事態が生じてしまう。しかしそれは、 そもそもの「単純観念間の接合原理ないし凝集原理」であるとするヒュームの観念の連合原 理の定義に反する。この不整合な状態を、整合的に読み解くことは出来ないのか。(竹中氏、17ページ)
・・・後者②の関係においては、複雑観念の連合というのも当然ありえる、ということなのだ。一方、竹中氏は、
そして、この不整合を解消していく中で、複雑観念が語と結びつくときに、いわば高階化し、それが因果的に説明される中で、その高階化した観念は、単純観念としての働きを持たなければならなくなる、というということを以下で明らかにしていく。(竹中氏、20ページ)
・・・という方向性を示されている。これについては、2回に分けて分析してみたい。大厩氏もそうだが、不整合を整合的に説明する前に、「不整合」とは何なのか、「整合的」とは何なのか今一つ自覚的ではない気がするのだが・・・
ヒュームは、上掲の第一巻第一部第三節「記憶と想像の観念について」の第四段落において初めてfancyを用いる。この段落は、「観念を置き換えたり変えたりする想像の自由」について述べ、翼のある馬や火を吐くドラゴンなどが思われるが、想像は観念を自由に分離結合できるので、「この空想fancyの自由」は不思議ではないとされるものである。この fancyを、Nortonや大槻の言うようにimaginationと互換可能であったり同じ意味であったりするなら、「想像の自由」を繰り返しているにすぎないが、ホッブズのようにimagination とfancyを使い分けて読むならば、想像の自由により、翼のある馬や火を吐くドラゴンのような感覚に由来しない像であるfancyをも自由に生み出せるということになる。 (竹中氏、20ページ)
・・・竹中氏もヒュームも、空想・想像どちらにおいても、それが「自由」とはどういうことなのか、もっと厳密に考える必要があったのだ。そして「感覚に由来」していようがいまいが、観念=心像として抱ければそれで良いのである。では、「丸い四角」は描けるだろうか? 「辺が四つある三角形」は描けるだろうか? 「丸」「四角」「直線」は印象・観念として具体的経験として現れる。しかし「丸い四角」は現れないのである。自由に「丸」と「四角」とを様々な位置関係として配置することはできる(上記②の関係)、しかし丸と四角とを一つの観念として結合すること(上記①の関係)はできないのである。

竹中氏も以下のように説明されている。
次に、第二の議論は、実在において、心の中には特定の程度も割合ももたないような印象を受け取る能力はないということから、「そのようなこと(特定の程度も割合ももたないような印象を受け取る能力があること)は名辞termにおける矛盾であり、すべての中で最もあからさまな矛盾、すなわち、同一のものが存在しかつ存在しないのが可能である、ということさえ含意するのである」(T.1.1.7.4, 括弧内筆者)とされる。この「矛盾contradiction」は、「否定」を説明するために言及されるものとして解釈される(神野, 1984, p.145)。矛盾するものは思うことができず、思うことができないものは、存在することもできない、というヒュームの存在論の一端がここに現れている。
 そして、第三の議論は、自然界にあるあらゆるものは個別的であり、それゆえ特定の程度 の量や質をもっているので、例えば、辺や角の確定した割合を持たないような三角形を、真 に存在すると想定するのは全く不合理であり、このことが事実、現実に不合理であるならば、 観念においても不合理である、というものである。 (竹中氏、24ページ)
・・・これは、抽象観念(概念)と呼ばれているものでも、結局は言葉に対応する具体的・個別的な観念(印象でも良い)として現れている、ということなのである。竹中氏も具体的に想像してみればそのあたり分かるはずなのだが・・・なぜか大厩氏も竹中氏も「経験論」について議論しているわりに、実際に現れる経験により検証するという姿勢があまり見られない(一ノ瀬氏にもそういった面がある)のだ。先に触れたが、「経験を額面通りに」捉え「抽象的な話をすることと混同」しないことが「経験論」なのである。

三角形を想像することはできる。しかしそれがはっきりとした心像である場合もあれば、あやふやな時もある。心像がはっきりしないのに「三角形だ」と自覚(言語表現)している場合もある。”思考”というのは一筋縄ではいかない、勝手に進行する(実のところ能動的でも何でもない)、ただ現れる経験に他ならない。ただ、その際重要なことは、「三角形」という言葉に対応して現れるのは、それが明確であれあやふやであれ常に具体的・個別的な印象・観念(=心像)に他ならないということなのである。

(ちょっと話が逸れてしまったが・・・)「矛盾」というものは、まさに想像すらできないものなのである。「矛盾するものは思うことができず」という説明はやや誤解を招く。「思うことができない」事象を「矛盾」と呼んでいるのである。「名辞termにおける矛盾」とあるが、言葉がなければ矛盾もない。言語表現と印象・観念として現れる経験とが繋がらない、言葉に対応する印象・観念が現れない、それこそが「矛盾」である、ということなのだ。「矛盾」「整合性」ともに、言葉と経験(印象・観念)との関係の問題であるのだ。
fancyは、この恣意的に結合された二観念を含み得るということになるのである。そして、fancyは像そのものを指すのであるから、恣意的に結びついた像とヒュームのもっとも重要なテーゼである「それらが対応し、それらが正確に再現するところの単純印象に由来する」(T.1.1.1.7) 単純観念とも等質化してしまうのである 。これは、ヒュームの理論上不可能である。(竹中氏、21ページ)
・・・竹中氏も「言葉」の位置づけを無視しているからこのような話になってしまうのである。上記①の複雑印象・観念とは、結局のところ単一の印象・観念と複数の言葉との関係のことである。観念は一つである。「単純観念とも均質化してしまう」というのは誤解である。一つという意味では「単純」ではあるのだが・・・

・・・つまり、ヒュームの説明を「整合化」する必要などなく、ヒュームの「複雑観念」というものが全く別の「関係」を含んでしまっている、そこを指摘すれば良いだけの話なのだ。
ヒュームに従えば、「ある色」、「ある味」、「ある香り」など諸単純観念が、観念の連合原理の近接あるいは因果によって結合して複雑観念となり、それに「リンゴ」という名前が付せられるということになる。(竹中氏、22ページ)
・・・竹中氏のこの説明も、①と②の2種類の「関係」を混同してしまっているために生じるものである。
この「ある色」を「赤(さ)」とするならば、「赤(さ)」 という名前が付せられた類似による集合、つまり「リンゴ」、「いちご」、「トマト」などのよ うなものの集合をその外延として捉えてよいのが様相観念である。 (竹中氏、22ページ)
・・・としているが、ヒュームの言う「様相観念」とは「ダンス」とか「美」のことである。様々な経験としての局面を綜合して(そこに因果関係があったりなかったりする)呼ぶ呼び名(およびそれに対応する印象・観念)のことである。「赤」と「美」とを同列に扱うことはできるであろうか?

「リンゴ」で示される印象・観念は同時に「赤」でもある。「いちご」「トマト」においても同様である。つまり「赤」という言葉に対応する印象・観念は具体的経験として実際に現れている。

一方、「美」とは何であろうか? あるものを見て「美しい」と思ったとする。具体的経験とは、そこに見えたもの(印象)、それに応じて現れた何等かの体感感覚(情動的感覚)、そして「美しい」という言葉だけである。「美そのもの」の印象・観念などどこにもないのである。

つまり「赤」と「美」とを同列に扱うことなど到底できないのである。「ダンス」については微妙であるが・・・

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