2019年3月8日金曜日

個別的な諸項がまとまり高階化することで(タイプ化して)言語と結びつくのではなく、言語と経験とが結びつく経験が繰り返されることで(恒常性)客観性がもたらされる

竹中久留美著「ヒュームの「意味論的見解」とは何であるのか」『東洋大学大学院紀要』48(文学(哲学))、東洋大学大学院、2011年、15~36ページ
https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/7977.pdf

・・・の後半部分の分析です。(前半部分はこちらです

竹中氏、一ノ瀬氏ともに、具体的経験における「言葉」の位置づけを見誤っているように思える。
ヒュームに従えば、「ある色」、「ある味」、「ある香り」など諸単純観念が、観念の連合原理の近接あるいは因果によって結合して複雑観念となり、それに「リンゴ」という名前が付 せられるということになる。(竹中氏、22ページ)
・・・のように、「観念」が結合して「リンゴ」になったのではない。そもそも私たちは「リンゴ」という言葉がどのようにして成立したのかも知らないのである。そしてそこに見えているものはあくまで「リンゴ」であり、「色」や「味」や「香り」が結合したから「リンゴだ」と思ったのではない。ただ「リンゴだ」と思った事実があり、「色」や「味」や「香り」によりそう思ったのだ、というのは事後的な因果推論なのである。
個別的なA1-B1, A2-B2 などが、タイプA-Bになる必要がある。これは、個別的なあるいは経験可能な諸項がまとまり、高階化することである。そして、それは観念が語に結びつく、すなわち語を習得する構造も同じものである。さらに、タイプあるいは語という高階化したものは、再度単純観念として、その下にある観念と因果関係を築くということになるのである。 (竹中氏、29ページ)
・・・これは印象・観念という経験と、言語表現という経験とを全く別の”階層”と解釈するものであるが、いったいそのような”階層”はどこに見出せるであろうか?

印象・観念と言語とは、階層、あるいは高階化とは関係なく、同じように具体的な経験であることに変わりはない。具体的経験としては、ただ言葉が観念を呼び起こす、ある印象(あるいは観念)を見て(感じて)言葉が現れる、ただその事実のみである。

言葉がいかにして観念と結びついたのか、その”由来”や”プロセス”など知りようもない。資料や情報が残っている限りにおいて由来は因果的に知りうるが、”由来”の話と、言葉の”意味”の話とを混同しないことが重要なのである。

その上で「恒常性」とは、他者が私と同じようにそのものを見て「リンゴだ」と言っているのを目撃する経験、本やテレビなど様々なメディアで写真・絵・映像が「リンゴ」として紹介されているのを見る経験、そういった言葉と印象・観念がセットとなった経験の繰り返し、まさにそのことなのである。一般的には客観性のことである。

言葉の意味に恒常性・客観性は必須ではない。まず関係に関する個別の具体的経験がある。恒常性・客観性とは、その関係に関する経験の繰り返しにより獲得されるものなのだ。
因果関係の成立に恒常性が必須ではないのは、拙著「ヒューム『人性論』分析:「関係」について」でも説明している)

恒常性=客観性が担保された(しかし蓋然性レベルであるが)ことと、因果関係や言語表現が具体的経験として現れた事実とを混同すべきではない。

・・・このように、竹中氏、一ノ瀬氏の言語に関する分析は、その順序が経験に即していない、ということなのである。
 恒常的連接について、一ノ瀬は「その意義からして、「タイプ」の概念がなければ成立し ない」(一ノ瀬, 2004, p.247)と指摘する。(竹中氏、27ページ)
・・・これも順序が逆である。関係に関する経験の繰り返しが恒常性なのである。
 つまり、単純観念が複雑観念になると、言い換えれば項が集合としてまとまると、名前が 付せられる、すなわち一階高階化する。そのとき、その名前は単純観念として働き出すとい うことになる。そしてこれは、無限に高階化する、あるいは無限退行する必要はなく、一階 のみの高階化を繰り返すだけである。なぜなら、高階化した観念は、改めて単純観念となっ ているからである。 (竹中氏、28ページ)
・・・複雑観念が高階化して単純観念になる、という説明は「こじつけ」以上のものではない。「リンゴ」というものは色や味や香りという観念が”結合”して出来たものではない。そこに見えているもの、今思い浮かべている観念(心像)が、「リンゴ」であり「色」を持っているのである。あるいはその観念と同時に「香り」や「味」を連想したりするのである。
「反省と会話のすべての目的にかなうであろうような、少なくともそういった仕方で、量と質の可能な程度すべての思念を、私たちは一度に形作ることが出来る」(T.1.1.7.2)ということの証明でもあった。とするならば、ある語と因果的に結びついて想起された観念は「反省と会話のすべての目的に」かなっているのである。つまり、観念の想起と語による使用の場面が一致しているのである。 (竹中氏、29ページ)
・・・ここで「目的」という表現をどう捉えるかということなのだが・・・要するに、様々な場面において、それに応じた「三角形」を描くことができる、「三角形」という言葉に対応する様々な具体的・個別的な図・印象・観念を描くことができる、ということなのである。「すべて」という表現が誤解を生んでしまうのかもしれない。

言葉の意味の「使用説」と上記ヒュームの見解とを混同してはならない。言葉の意味として現れるのは、あくまでその言葉・名辞に対応する個別的・具体的観念・印象であるからだ。

しかし実際のところは、「生物」という言葉一つとっても、「これは生物と呼んでよいものなのかな・・・」と迷ったり、上手く観念として描けなかったりすることもある。

そもそもが「抽象概念」とは何なのか? 「リンゴ」は?「人間」は?「山」は? ・・・結局あいまいな分類でしかないのである。そして、個別概念も抽象概念も、言葉と個別的印象・観念との繋がりであることに変わりはないのである。

一ノ瀬氏(あるいは現代におけるその他のヒューム研究者の方たち)に関して思うのだが、彼らはヒューム理論を経験論として分析しているのではなく、最近の分析哲学(と括ってしまっていいのか分からないが)的コンテクストのもとで解釈しようとしているように感じられるのである。

経験論はむしろそういった分析哲学的思考を批判するものだと思うのだが。

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