ちょうど(?)以下の論文を見つけたので、私なりの見解を述べてみたい。
豊川祥隆著「ヒュームの関係理論再考―関係の印象は可能か―」『イギリス哲学研究』 39(0)、日本イギリス哲学会、2016年、67~82ページ
関係の観念が複合的であると言うとき、その意味の候補は二つある。第一に、関係の観念を、複数の対象のみに構成されたものと考えることができる。その場合、ある関係にあるA、Bという対象があるとき、この二つが単に並置されることで、関係の観念が構成される。第二に、関係の観念は、複数の対象に加え、関係を成立させる事情を包括すると考えることができる。その場合、関係の観念はA、Bという対象に加え、それらを比較する際の事情を含んでいる。・・・ヒューム自身の説明のブレがあるために、いろいろな解釈ができるかもしれないのだが、基本的に「理性」というものを前提とした根拠づけは、経験論の論理からは逸脱したものであるといわざるをえない。「理性」という言葉に対応する観念・印象をいくら探しても見つかることがないからである。
ヒュームがこのどちらを考えていたかについては、ヒュームが関係について言及する箇所以上に明示的な論拠はない。しかし、この二つの候補のうち、明らかに前者は不合理である。前者ではただ単に複数の対象を並置することで関係の把握が遂行されることになるが、これはわれわれの認識の仕方と適合しない。複数の対象をただ知覚するのと、その知覚と共に関係を把握するのは別の事柄である。複数の対象をただ知覚するのと、その知覚と共に関係を把握するのは別の事柄である。また前者の場合、諸観念を比較する理性は不要になってしまうが、これはヒューム自身の言葉と相容れない。従って、関係の観念は、複数の対象に加え、それらを比較する際の事情を含んだ観念であると考えられる。(豊川氏、68~69ページ)
AとBが実際に並置されている、AとBとが並んでいる様子がそこに見えている、その印象が、まさに「場所的状態」なのである。そこに「A、Bという対象に加え、それらを比較する際の事情」というものなどどこにもない。それを認めることは、観念と観念、印象と印象との間に、経験として現れることのない「想定概念」を差しはさむ、あるいは背後に措定する、というまさに合理論的論理に陥ってしまうのだ。
「関係」と呼ばれるものは、まさに経験にそのまま現れている。その現れている状態を「関係」と呼んでいるのであって、経験と経験との間を取り持つ「力」「作用」「きずな」そういった措定概念を持ち出すことの根拠がまったくどこにも見当たらないのである。
ここでは、対象が現前している場合における関係の把握が、「感覚」と表現されている。それゆえ、前節で挙げたヒュームの印象についての語法を考えれば、ここでの「関係の観察」も、観念ではなく印象を通じて行われていると考えられる。(豊川氏、74ページ)・・・つまり実際に対象が”並置”している、あるいは”継起”している、それらは「論拠」によって根拠づけられることではない、実際にそこに並んで立っているではないか、その印象こそが「関係」と呼ばれるものだ、そういうことなのであって、そこに”二つの対象の間を取り持つ力・作用・きずな”の印象を措定する必要はない、豊川氏の言われる「関係を成立させる事情」とはまさにこの具体的知覚そのものだ、ということなのだ。
関係の観念の成立のためには、もう一つの類似の把握が必要である。すなわち、個々の事情の間の類似が知覚され、その事情が一般化される必要がある。それにより初めて、対象の間で成立する関係の一般的把握が可能となるからである。(豊川氏、70ページ)・・・ヒュームが「関係の印象」という表現を用いないのはもっともである。そもそもそういうものなどないのだから。そして、関係を把握するのに「関係の一般的把握」は必要ない。まず特定の経験があり、そこから何らかの「関係」を見いだした(しかし「関係そのもの」の印象ではない)という事実がそこにある。まずその経験が所与としてあるのだ。もちろん「関係そのもの」、言い換えれば「関係をもたらす何らかの力・作用・きずな」の印象・観念などどこにもない。
従来の解釈者のように関係の印象の考察を回避する場合、その根拠がない以上、ヒューム哲学は関係の観念を扱えないという批判(Cf. Prichard, 1950: 177/8, Green, 1992: 172-6)を招く。そのため、ヒュームが関係の観念を正当に扱うためには、やはり関係の印象の存在を提示する必要がある。(豊川氏、71~72ページ)・・・「関係」という「言葉」はあっても複数の印象・観念の間にあってそれらを繋げる何か(力・作用・きずな)といったものの印象・観念というものは知覚経験として現れることがない、ここが経験論のキモ(の一つ)なのであって、ここで「関係の印象」というものを探すことは、根拠のない推論・想像に向かってしまうだけなのだ。
「感じとしての印象」(豊川氏、75ページ)というのはありえない。私たちが思考するとき、違和感やら安心感というか納得したときのすっきり感とでもいおうか、そう呼ばれる情動的感覚がある(より厳密には、特定の具体的体感感覚とそれを違和感、すっきり感と言語表現した事実があるだけだが)。ヒュームはそれらを「情念」に含めているし、実際具体的感覚であることに変わりはない。ただそれらは、あくまで思考を導いていく道しるべ的働きをしているだけで(因果的に考えれば)あって、決して「関係」の印象ではない。
類似、同一性、(性質の)程度、空間と時間、反対といった関係は、受動的直観によっては悪され、その把握が「感覚」と比喩される点から、われわれに本性的、一般的に把握されうるものだと言える。同様のことは、差が十分ある場合、数、量にもあてはまる(Cf. T.1.3.1.3)。また因果関係については、対象の推移の仕方の「類似の観察」が必要であること、そしてそこから生じる因果推論がしばしば本性的、本能的と考えられていることから(Cf. T.1.3.8.2, E.5.2f)、やはり他の哲学的関係と同様であると考えられる。(豊川氏、77ページ)・・・これも、結局は、これら「関係」と呼ばれるものが実際の観念の並列・継起、そういった具体的知覚として現れていることを示していないだろうか? 「感覚」と”比喩”されるのではない。具体的感覚として実際に現れている、そういうことなのである。「本性的」「本能的」というのが”比喩”なのであって、「理性」と同じくそのようなものの印象・観念など実際にはどこにもない。
豊川氏の本論文は、印象⇒観念、という関係から「関係」の印象・観念について論じられたものであるが、豊川氏も、そしてヒュームも見落とした「言葉」と印象・観念との関係も論じるべきであろう。ヒュームはしばしば「〇〇の観念」という表現を用いるが、実際のところそんな心像=観念、などどこにも現れていないことが多いからである。
要するに「〇〇という言葉」「〇〇という用語」と表現すべきところを、ヒュームは経験における「言葉」の位置づけを無視しているために、「〇〇の観念」としてしまっている、そういう箇所が多く見受けられるのだ。
例えば「時間の観念」と言っても、そのようなもの具体的に現れてなどいない。「時間そのものの印象・観念」などないのである。ただ現れているのは継起する(あるいはしない)印象・観念(感覚や心像など)だけなのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿