1.因果推論を因果推論によって根拠づけようとしている
一つの対象の存在から他の対象の存在を推理できるのは、ただ「経験」によってだけである。この経験の本性というのは次のようなものである。まず、ある一つの種類の対象が存在した実例に、かつてしばしば出会ったことを思い出す。また、対象の他の種類に属する個物がいつもそれらに伴い、しかも、それらに対して近接と継起の一定のあり方を保って存在したことを思い出す。こうして、たとえば炎と呼ばれる種類の対象を見たこと、また熱さと呼ばれる種類の感覚を感じたことを思い出す。それにまた、過去のすべての実例で両者の間に恒常的な相伴があったのを思い起こす。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、53~54ページ)・・・具体的に検証してみよう。因果推論に関しては、二つのケースがありうる。
① 答えが浮かんでいる場合(観念あるいは印象として現れている場合)
② 答えが浮かんでいない場合
・・・まず①についてであるが、熱いと感じるとき、そこに炎があれば、炎のために熱いと感じている、と容易に因果推論できるであろう。一方、②については新たな経済政策を実行しようとしているがその結果が容易に判断できない場合、などである。そういう場合、似たような要素を持つ様々な事例のデータを集めた上で、因果推論するであろう。
これらの因果推論について、経験論としてはどのように受け止めれば良いのであろうか?
①の場合、炎と熱との因果関係を認めるのに、いちいち過去の経験の恒常性など思い浮かべるであろうか? マッチで火をつけたとき、炎が柄の方にだんだん進んできて思わず「熱い」とマッチを放り投げてしまったとする。炎と熱さとの間の因果関連を認めるのに、いちいち過去の事実を思い起こすであろうか?
具体的に検証してみてほしい。「過去のすべての実例で両者の間に恒常的な相伴があったのを思い起こす」とはいったいどういうことなのであろうか? いちいち、炎を熱いと思った具体的事例を一つ一つ思い出すのであろうか? そんな具体的記憶いちいち思い起こせるであろうか?
具体的経験としては、「恒常性」などおかまいなしに、とにもかくにも「因果推論」したのである。あるいは「因果関係を認めた」のである。このとき”過去のすべての実例”というものが経験として現れているわけではない。
つまり、炎を熱いと思った経験と、その時点において経験として現れてはいない”過去のすべての事例”との間の因果関係がいかに成立するのか、という問題が生じてしまうのである。
記憶もしくは感覚機能に現れる印象から原因あるいは結果と呼ばれる対象の観念への移行が過去の経験、すなわち両者の恒常的な相伴の想起をもとにすることが明らかになった(ヒューム、54ページ)
原因と結果の観念は、しかじかの特定の対象が過去のすべての実例で、きまって互いに伴っていたことを知らせる経験に起因する。(ヒューム、56ページ)・・・とヒュームは結論づけているが、これでは「過去の経験の恒常的相伴⇒因果推論」、という「原因」「結果」の関係になっている。つまりこの関係もやはり「蓋然性」でしかないのだ。
炎と熱さとの関係は、私たちにとってはあまりに当然な経験則であるから、「過去の経験の恒常的相伴」が因果推論をもたらしたという結論は、一見もっともらしく感じられるのであるが、マッチの火を「熱い」と思ったとき、過去の事例をいちいち思い浮かべてはいないという事実、その具体的事実をまず「額面通り」に受け取る必要がある。その上で過去の経験(の記憶)との関連づけについて分析していく、これが経験論としての分析の順序ではなかろうか。
「恒常性」が因果推論が引き起こされた「原因」ではないと言っているわけではない。しかしそれはあくまで「蓋然性」レベルの因果推論なのである。
特に言うまでもないが、かつてすでに得られた結論あるいは原則をもとにして、これらが最初に生じたときの印象に頼らなくてもわれわれは推論できるのであるが、それはしかし、ここに述べた説に対する正当な反論にはならない。なぜなら、かりにこうした印象が記憶からすっかり消え去ったと仮定しても、印象が生み出した確信はそのまま残りうるのであって、したがって、原因と結果に関する推理がすべてをもとにたどればある印象から引き出されることはやはり真実であるからである。(ヒューム、50ページ)・・・「ここに述べた説」とは(大雑把に言えば)「記憶か感覚機能かどちらかのよりどころがなければ、推論の全体が明らかにこしらえもの、基礎のないものとなるであろう」(ヒューム、50ページ)という見解のことである。
問題は、「かつてすでに得られた結論あるいは原則をもとにして、これらが最初に生じたときの印象に頼らなくてもわれわれは推論できるのである」というところである。ヒュームも因果推論がいちいち「印象」に頼らなくてもできることを認めている。これは具体的経験を振り返ってみてもそうであると確かめられることであろう。
一方、「かつてすでに得られた結論あるいは原則をもとにして」という見解はどうであろうか? これは、先ほど私が述べたように「過去の経験の恒常的相伴⇒因果推論」の枠組みを前提とした説明である。因果推論をした事実が具体的経験としてまずある。しかし「すでに得られた結論あるいは原則をもとにして」いるのかどうか、そこは事後的な因果関連づけでしかない。
・・・お分かりであろうか? 因果推論の根拠を因果関係で説明しようとしているのである。繰り返すがヒュームは因果関係の”原因”を問うてしまっているのだ。
2.因果推論の「正しさ」の検証
上記②の場合はどうであろうか。これについては因果推論の答えが見えないのであるから、過去のデータを集めそれらを元に因果推論するのである。つまり過去の経験における関係性(恒常的相伴が見られるかもしれないし見られないかもしれない)を見つけ、それらをつなぎ合わせようとしている。
これについても同様に、因果推論しようとした事実が恒常性によってもたらされたわけではなく、より「正しい」(と思われる)因果推論を目指すために恒常性を持つ関係を探しているのである。
しかし、それら過去のデータに基づいた因果推論が本当に「正しい」のかどうかは、その経済政策を実行して実際に社会がどうなるか見極めるまで分からない。
過去のデータによる推論にもかかわらず、将来予測が大きく外れてしまうことも多い。その場合、新しく得られたデータとこれまでのデータ・経験則との関連づけを改めて見直し、新たな因果関係を構築していくだけである(因果的に辻褄合わせがなされる)。
自らの経験の繰り返し、さらには他者の経験(の報告)により、ある因果関係は否定され別の因果関係に取って代わられる。あるいは常に同じような結果となり否定されることのなかった因果関係もある。経験則はこのようにして更新・蓄積されていくのである。
①の事例においても、ある場面においてマッチの炎と熱さとの関連を見いだしたとしても、それが他の人にとって同じなのか、あるいは別のシチュエーションでも同じなのか、様々な事例において同じような関係が見いだせるのか、という問題が生じる。その時はじめて「恒常性」が関与して来るのである。
思い出しうる”過去のすべての経験”において同じような関係が見いだせていたか、あるいはこれから生じうる経験においても同じような関係を見いだしうるのか、因果関係の「客観的正しさ」がまさにヒュームの言う「恒常性」(あるいは「再現性」)なのである。
つまり、ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている、あるいは混同してしまっているのだと言える。
3.経験論として因果関係・因果推論を説明するとは
既に述べたが、「恒常性」が因果関係に対する確信を高め、他の事例においても因果関係が適用できるのではないか、と思わせるのだ、という説明が「間違い」であると言っているのではない。そういう可能性もある。しかしこれも因果推論によるストーリー構築なのであって、因果関係とは何か、という問題の説明になっていないのである。
因果推論というならば、人間の脳に因果的思考をする回路が組み込まれていて、いやおうなしにそうなってしまうのだ、という言い方だって可能なのだ。
そうではない。経験論として因果関係を説明するということは、因果推論の「原因」を問うことではなく、因果推論というものが具体的経験としてどのように現れているのか、それをやはり具体的に説明することなのである。
したがって、心が一つの対象の観念もしくは印象から、他の対象の観念もしくは信念へと移るときに、心は理性によって規定されるのではなく、想像においてこれらの対象の観念を連合し、結び合わせるようなある原理によって規定されるのである。・・・「相伴の理由を見きわめることはできない」というのはもっともである。一方で「原理」というものが実際にあるのだろうか? 因果推論した事実はある。しかしそれが「原理」によってもたらされたものなのか、その「原理」というものが具体的経験として現れていないものなのである。
われわれにはこうした相伴の理由を見きわめることはできない。ただ事がらそのものを観察して恒常的な相伴のために、対象が想像において結び合わされるようになるのをいつも見いだすというだけである。(ヒューム、57ページ)
「恒常的な相伴」が因果推論をもたらす「原理」なのではない。「恒常的な相伴」はあくまで因果関係の「客観的正しさ」を担保するものなのである。恒常的相伴がなくても因果推論は成立する。そもそも推論そのものに究極的な根拠など必要ないし、それが「正しい」ものである必要もないのだから。経験論としては、推論した事実のみを認めればよいのだ。
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