2019年4月24日水曜日

因果推論するのに必然性あるいは恒常的相伴は必要ない

澤田和範著「ヒュームの因果論における必然性の観念について」『哲学論叢』38、2011年、 61~72ページ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173207/1/ronso_38_061.pdf

・・・を読み始めた。

そもそもの話なのだが、因果推論するのに「必然性」を伴う必要があるのだろうか?
必然性がないと因果推論できないのだろうか?

私たちは、日ごろから必然性などおかまいなしに因果推論している。因果推論が「正しく」なければ因果推論できないのか? そんなことはない。皆さん根拠があろうとなかろうと勝手に因果推論している。(ただそこで間違ってならないのだが、因果推論したことが事実である、ということは、因果律がア・プリオリであるということではない。)

その因果推論が「正しい」のか「間違いなのか」・・・それは新たに現れる事実により確認されるのである(”新たな”事実とは、これまで知らなかった過去の経験である可能性もある)が・・・そこで初めて「恒常的相伴」が問題となって来るのだ。

そしてヒュームがここで「印象」を持ち出しているのは、因果関係の「正しさ」は事実によってもたらされるのであって、「想像」によってもたらされるのではない、ということなのである。そこでヒュームが想像と記憶との違いは何か、と問う意義があるのだ。

ただ・・・ヒューム自身、因果推論した「理由」と因果推論の「正しさ」(=客観性=恒常的相伴)の検証の問題とを混同しているため、論理に混乱を来してしまったのである。
 我々は一方の対象の印象が心に現れると、もう一方の対象の観念を思い浮かべる。これが因果推論である。この推論はアプリオリに対象を考察しただけでは不可能であり、経験がそれを可能にすることがわかる。すなわち、二対象が「恒常的随伴」の関係にあるのを 経験して初めて、因果推論は起こる(T 1.3.6.3)。経験を考慮に入れることによって、我々は 恒常的随伴という新たな関係を発見できたのである。ところが、この関係の発見によっても事態は好転しない。恒常的随伴は「どんな新しい観念もけっして発見できず、ただ精神の対象を多数化することができるだけで、拡大することができない」(ibid.)からである。必然性の観念は依然として見つからない。(澤田氏、62ページ)
・・・因果推論は、”二対象が「恒常的随伴」の関係にあるのを経験して初めて”起こるのではない(澤田氏はまずここを指摘すべきであったのだが)。因果推論とは、ただ未知の事象を因果的に推測した具体的経験であるに外ならず、その未知の事象が実際に経験として現れることでその推論が「正しい」と確かめられるまではその「正しさ」「必然性」は確保されることがないのである。

推論に必然性をいくら探しても見つからないのは当然なのだ。
さらに言えば、因果推論の「原因」「理由」を探しても、結局それも「因果推論」にならざるをえない。(つまり”無限後退”であるが、澤田氏の言われる”無限後退”がこのことに関連しているのかどうかは、後日、論文の後半部分を読んで判断したい。)
我々は外的対象において、必然的結合を知覚することはできない。我々は外的対象間の必然性を信じるために、精神の被決定に訴えることになる。しかし、「この精神の被決定の 印象とは対象 Aの印象の現前が対象 Bの観念の現前の原因であるという、したがって、対 象 A の印象が対象 B の観念と必然的に結合しているという印象に他なら[ない]」(木曾, 1995, 531頁)。そうだとすれば、厄介なことに、この対象 Aの印象と対象 Bの観念との必 然的結合に関しても、事態は外的対象間の必然的結合の場合と変わらない。「我々の内的知覚の間の結合原理は、外的知覚の間の結合原理と同様に、知的に理解できず、経験によ って知る他には知りようがない」(T 1.3.14.29)とヒューム自身が認めているからである。(澤田氏、64ページ)
・・・澤田氏の指摘はもっともであろう。複雑観念に関して、ヒュームは「きずな」「穏やかな力」「引力」という用語を持ち出している。しかしこれは明らかにヒューム自身のブレである。
今度は、その知覚間の必然的結合を「その知覚の知覚」間の、別の新たな精神の被決定で説明してしまおう。これがヒュームの戦略だというわけである。
 しかし、このような議論では、問題を先送りにしただけで、観念の起源を説明し切れないことは明らかであろう。(澤田氏、64ページ)
・・・必然性の「観念」などどこにあるのか、という問題もあるのだが。あるいは経験論においては、恒常的相伴がまさに必然性そのものなのである。科学的客観性も恒常的相伴(再現性)に他ならない。
ヒュームが、一方で、「精神の被決定を感じる」と主張しながら、他方で、外的対象間にも内的知覚間にも必然的結合を知覚できないと主張していることに鑑みれば、無限後退説はヒュームの因果論の避けがたい破綻を捉えているように見える。しかし、これはあまりに破壊的な解釈である。この解釈から、ヒュームを救い出すことはできないだろうか。(澤田氏、65ページ) 
・・・果たして澤田氏はこのあとどのような論理に持っていかれるのか? 明日以降の楽しみ(??)にしておこうと思う。


<関連するレポート・ブログ記事>

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

ヒュームは因果推論における「経験」の位置づけを見誤っている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post.html

ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_6.html

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