2019年4月3日水曜日

経験論について分析しているのに経験論的手法が無視されている

奥田太郎著「ヒューム道徳哲学における時間について : ヒューム的な「時」を求めて」『アカデミア』人文・自然科学編(16),南山大学, 2018年, 81~92ページ
(タイトルをクリックすると論文のPDFファイルがダウンロードされます)

・・・を読み始めたのだが、

分析の前に、まず触れておかねばならないが、「時間の観念」という表現は、観念=心像とすれば、事実と相容れないものである。時間は心像として現れることはない。あるのは印象・観念の継起だけである。

 時間の観念は,他の印象と混在しつつそれから明瞭に区別できるような,特定の印象から生じるのではなく,もっぱら諸印象が精神に現れる際の現れ方から生じるのであり,その際時間は, それら諸印象の一つではないのである。(…)時間は,根源的な別個な印象としては現れない のであるから,或る仕方で配列された,すなわち互いに継起しつつある,異なる諸観念,また は諸印象,または諸対象,以外のものではあり得ないことが,明白である。 (T 1.2.3.10/邦訳 51 ― 52頁)(奥田氏、83ページ)
・・・まさにそういうことである。ただ、
時間の観念は,あらゆる種類の知覚の継起から生じる抽象観念である,と規定される(83ページ)
・・・という説明は不正確である。そもそもが「抽象観念」と言ったところで、具体的に現れるのは個別的心像でしかない。(しかも時間の心像はない)
抽象観念としての時間は,推論においては普遍的であるかのように同じ用いられ方をするが,その正体は,個別具体的な知覚の継起だということである。この抽象観念論での論理を適用すれば,個々の知覚の継起の観念が,それが習慣的随伴によって結びつけられた「時間」という一般名辞のもとに,想像力によって次々と呼び起こされる,というのが時間の観念である,という仕方で,より精確に捉えることができる。さらに別の言い方をすれば,時間の観念とは, 「分離された個別な観念ではなく,単に対象が存在する仕方もしくは秩序の観念」 (T 1.2.4.2/邦訳 55頁:強調は奥田)に他ならない。(奥田氏、84ページ)
 ・・・ここで間違ってはならないのだが、継起しているのはあくまで知覚である。車窓から見ている風景が移り変わる、人が動いている、音程が変わる・・・そういった個々の知覚である。たとえ「時間」という”名辞”から動く時計の針やら太陽の動きやら、そういった知覚変化を想像したとしても、それも「時間そのもの」の印象・観念(=心像)ではないことに注意する必要がある。

「時間」という「名辞」はあっても「観念」はない。この違いは重要である。
たとえば,さきほどのリンゴの印象と現在のリンゴの印象は,それぞれ 単独には,リンゴの観念を生み出せても時間の観念を生み出すことはない(奥田氏、83ページ)
・・・少し不正確な説明である。印象の継起が見られないということは、時間が流れていない、ということである(少なくとも個人的経験としては)。上記説明はそういうことを言っているのではあろうが・・・ただ、その印象が観念として継起して現れるようなことがあれば、そこに印象・観念の継起が現れているのである。
継起に伴って私たちは,「先ほどから少し時間が経った」 という仕方で時間の観念をもちうる,ということである。(T 1.2.3.8/邦訳51頁)(奥田氏、83ページ)
・・・ここまで、奥田氏はある程度ヒュームの時間に関する見解を正確に追ってはいる(「時間の観念」という誤解も、ヒューム自身の誤解であるし)。

しかし、それならば以下のような疑問がどうして湧いて来るのかよく分からないのである。
 こうして時間の観念の核心が明らかにされた。しかし,こうした時間の理解は,私たちが日頃享受している時間経験と整合的だろうか。たとえば,時点tの知覚Cと時点t+1の知覚Dの間に何の変化もない(たとえば,何も物がない,光が一切入らない暗闇が広がる小部屋に一人閉じ込めら れた場合の知覚を想像されたい)とすれば,CからDへの知覚の継起を私たちが経験することは ないため,ヒュームの時間論の論理では,私たちはCとDについて時間の観念をもてないという ことになる。しかし実際には,私たちは時点tから時点t+1の間の時間の観念をもちうるだろう。 この事態をヒュームはどのように説明するのだろうか。(奥田氏、84ページ)
 ・・・ヒュームは、”私たちが日ごろ享受している時間経験”について説明したのである。具体的時間経験そのものを説明したのに、いまさら「時間経験と整合的だろうか」という設問をするのは正直理解できないのである。

過去⇒(瞬間としての)現在⇒未来、という客観的時間枠組みと具体的時間経験との整合性というのならば理解できるのだが・・・
時間の観念は,観念と印象,また反省の印象と感覚の印象を含む,あらゆる種類の知覚の継起から生じる(奥田氏、82ページ:ヒュームからの引用)
・・・つまり暗い部屋に閉じ込められたとしても、浮かんできた情景やら音やら情動感覚その他の体感感覚(胸が苦しいとかお腹が痛いとかでも良い)、さらにはふとつぶやいた言葉やら口ずさんだメロディーやら、あらゆる経験(印象・観念)の継起なのである。

そして、仮にぼーっと暗闇を眺めてしまった、ある特定の事柄に心を奪われてしまった、もしそうならばやはり時間は流れていないのである。
CからDへの知覚の継起を私たちが経験することはないため,ヒュームの時間論の論理では,私たちはCとDについて時間の観念をもてないということになる。しかし実際には,私たちは時点tから時点t+1の間の時間の観念をもちうるだろう。(奥田氏、84ページ)
・・・知覚の継起を経験していないのであれば、個人的経験としては時間など流れていないのである。「時点tから時点t+1の間の時間の観念」とは、例えば10時5分から7分になるという時間の概念(良い言葉が思いつかないのでとりあえず「概念」としておく)」であって、「時間そのものの観念=心像)」では決してないのである。

要するに、個人的経験としては、時間など流れていないのである。知覚経験の継起があったりなかったりしている、ただそれだけである。

奥田氏の言われる”私たちが日ごろ享受している時間経験”とは、時計で刻まれる時間、客観的時間のことなのである。ただそれだけのことだ。個人的時間経験と、他の世界で流れている(とされる)客観的時間とが合致する必要などどこにもないのである。

暗闇から外に出た時、客観的時間の流れ(たとえば時計の差す時間)と自分の感覚とがズレていたのならば、まさにそういうことなのである。時間の流れが遅く感じたり速く感じたりする、というのは、そういった個人的時間経験(経験しているのは時間ではないが・・・)と客観的時間経験とのズレなのである。

奥田氏は、ヒュームの説明を自らの経験として受け止め検証するのではなく、ヒュームの説明から論理を抽出し、それを客観的時間概念との”整合性”の問題として分析しようとしてしまっているのではなかろうか。

奥田氏もそうなのか・・・最近のヒューム研究において(あくまで私が論文を読んだ数名の研究者においてであるが)「経験論的手法」が無視されてしまっているのである。「経験論」の最も重要な部分が無視され、ヒュームの言葉から表面的な論理を抽出して整合性を求めようとする。そもそも「整合性」とはいったい何なのだろうか?

***********************

ヒューム『人性論』の「記憶」や「自己同一性」に関する問題とからめつつ、奥田氏の論文も時間をかけて検証してみたい。

ここで重要なことは、過去⇒現在⇒未来と”流れる”客観的時間概念がどのように根拠づけられているのかという問題と、個人的時間経験の問題とを混同しないことである。

また、”人格の同一性に関する議論を可能にする「同一性の観念」”(奥田氏、85ページ)とあるが、人格の同一性というものは「同一性の観念」とは全く別物であることも後で指摘しておきたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...