2019年4月13日土曜日

科学的真理がいつ「絶対的」なものになったのか?/「一般因果性」「特殊因果性」という区別などあるのか?

(従来の)合理論と経験論との議論に決着がつかないのは、それぞれが「経験」というものを恣意的に限定しており、「心」や「精神」と対象物との分離を前提とした上で、(おおざっぱに言えば)心が先か感覚や経験が先かみたいな議論になってしまっているからだ。

どちらが先かという前に、そのどちらをも既にあるものとしてしまっているのである。循環論法もいいところだ。(そもそも「心」や「精神」あるいは「理性」というものなどどこにあるのだろう?)

ドゥルーズの議論もその問題点には触れず、ただヒュームの提案した概念を別用に加工しただけのように思える。

河口丈志「ドゥルーズによるヒューム ― 因果性と経験の二重の意味―」『哲学の探求』第 44号、 哲学若手研究者フォーラム、2017年、179~192ページ 
http://www.wakate-forum.org/data/tankyu/44/44_10_kawaguchi.pdf

・・・をざっと読んでみたが、まさに私が書いた

ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

および、以下のブログ記事

ヒュームは因果推論における「経験」の位置づけを見誤っている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post.html

ヒュームは推論の「正しさ」がいかにして確かめられるかということと、なぜ推論できるのか(因果推論の”原因”)とを取り違えている
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_6.html

・・・が、河口氏が取り扱われている問題の回答になっていると思う。

「観念結合」というのが実際の経験としていかに現れているか、そこを厳密に検証する必要があるのではなかろうか。観念が想像によって自由に結合できると思ったら大間違いである。「規則」というものは経験からもたらされるものなのである。

あと、初歩的な誤りもある。
ヒュームは,感覚的所与を印象(feeling)と呼び,その精神における反射を観念(notion)と呼んだ.観念を精神において自由に結合するのは想像力(imagination)と呼ばれている.(河口氏、183ページ)
・・・この初歩的な間違いはおそらく発表時に指摘されたと思うのだが・・・こうして原稿になった時点で訂正されていないのはどういうことであろうか?
なお,スイッチをいれるとパソコンがつくというような,日常生活で確認される原因と結果の関係が,必ずしも絶対的な結びつきを必要としないように,ここで言われている因果性も必ずしも絶対的な確実性を根拠にする必要はない.この理論では科学的な真理を保証できない,というのはまた別の議論である.ゆえに,ここでは一般因果性ではなく,特殊因果性が話題になっていると理解してほしい.科学の真理性を保証するような絶対的はなくとも,恒常性と必然性のみで因果的関係は十分に成り立つのである. (河口氏、186ページ)
・・・いつ科学的真理が「絶対的」なものになったのだろうか? 科学的実験というものは、スイッチを入れるとパソコンが付く、というような経験の繰り返し、ヒュームの言う「恒常的相伴」、あるいは「再現性」によって仮説の「正しさ」が付与されるのである。ただ実際には100%の結果を出すことの方が難しい。それ故に(様々な経験則を集約した)統計学が必要とされているのである。

ヒュームの言う因果関係とは現代科学と(かなり)合致する見方なのである。科学的真理が「絶対的」であるならば、科学的知識が新しい発見によってどんどん更新されている事実をどう説明するのか?

そもそも「恒常性と必然性のみで因果的関係は十分に成り立つ」とはどういう意味であろうか? 恒常性とは経験論においては必然性の別名なのである。恒常性以上の必然性はない。

拙著でも説明しているが、「恒常的相伴」が因果推論した”原因”と確定しているわけではない(間違いであると言えるわけでもないが)。恒常的相伴がない事象でも私たちは勝手に因果的に把握してしまっている。人によって様々な因果推論がある。例えば「字がきれいな人は心もきれい」とかそういった実際に恒常的相伴があるかどうかもわからない(しかも「心がきれい」とはいかなることか定義さえも明らかではない)ことを信じたりしている(?)。間違った因果推論もたくさんあるだろう。

因果推論した「原因」など分からない。しかし因果推論した事実は経験としてある。経験としては個別の事例において因果推論したという事実があるだけ、それ以上でも以下でもない。そしてその因果推論が新たな経験(それは過去の経験の場合もある)により正しいと確かめられたり間違っていると分かったりするのだ。ただそれだけ、そのことは他の事柄に関しても因果律が適用可能かどうかについては何も語っていない。

因果推論した事実が(個別の)具体的経験としてある=因果律がア・プリオリな概念、という見方は、具体的経験から導くことのできない論理の飛躍なのである。
我々のすべての日常的な行動は,因果性を前提にしていることがわかるだろう.(河口氏、187ページ)
・・・本当にそう言えるのか? 私たちは、ただ行動したり感じたりしている。それらの経験を事後的に因果性として把握するだけであって、”すべての行動”が因果性を前提にしていると結論づけることはできないのである。個別の事象について因果的に把握した事実はあっても、それが”すべて”であると結論づけることはできないのである。

・・・他にもいろいろツッコミたいところがあるので、そのうち別記事でまとめておきたい。



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