ヒューム『人性論』の分析をどのように進めていくか、いろいろ考えているのだけど、様々な問題が、それぞれ関連し合っているので、どこからどう攻めたものか、なかなか難しいところがある。
『人性論』は難解な言葉が使われていないから、一見読みやすそうに思えるかもしれないが、ヒューム自身の見解のブレもあって、実際のところはけっこう読み進めるのが難しいのである。そして掘り下げると様々な哲学的問題がかかわっていることに気づくはずだ。(ヒューム研究に携わる人は別にして)巷の読者はけっこう雑に読んでしまっている印象がある。
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ヒューム『人性論』の第一巻における重要な問題点は、とりあえず思いつくところを挙げてみると、
①印象⇒観念、の関係(複写理論・コピー理論)
②時間と空間
③抽象観念とは
④関係とは(因果関係含む)
⑤記憶と想像の違い
⑥信念とは
⑦ 情念と印象・観念とのかかわりあい・・・⑥と関連して
⑧存在とは
・・・といったところだろうか。拙著(ヒューム『人性論』分析:「関係」について)では②③④について書いたものである。
ここのところ考えているのは、複写理論・コピー理論を掘り下げていけば、⑤⑥⑦の問題も関連して扱えるかな・・・ということである。
複写理論・コピー理論については、
澤田和範著「ヒュームの因果論における必然性の観念について」『哲学論叢』38、2011年、 61~72ページ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173207/1/ronso_38_061.pdf
豊川祥隆著「ヒュームの関係理論再考―関係の印象は可能か―」『イギリス哲学研究』 39(0)、日本イギリス哲学会、2016年、67~82ページ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sbp/39/0/39_2016_0067/_article/-char/ja
・・・でも触れられているが、よくよく掘り下げて考えてみると、澤田氏・豊川氏とは全く別の論点が浮かび上がって来るのである。これについては後日じっくり論じてみたい。
複写理論について、念頭に置いておかねばならないのは、
(1)複写理論・コピー理論も結局は「因果関係」である。因果関係であるから恒常的相伴以上の必然性を見いだすことはできない。また複写理論を因果関係の根拠づけに用いることはできない。因果関係で因果関係の根拠づけをすることになるからである(循環論法)。
(2)単純観念が浮かんできたとき、そのオリジナルとなる印象は既にどこにも見つけることはできない。以下の西田幾多郎の指摘がまさにそういうことである。
記憶においても、過去の意識が直に起ってくるのでもなく、従って過去を直覚するのでもない。過去と感ずるのも現在の感情である。抽象的概念といっても決して超経験的の者ではなく、やはり一種の現在意識である。(西田幾多郎『善の研究』岩波文庫、17ページ)・・・つまり印象⇒観念の関係とは、ある観念(心像)が浮かんできたとき、それが特定の経験の記憶として同定できるかどうか、ということに集約されるのである。
そこで、記憶と想像との違い、という問題が関連してくる。そしてその答えは、ヒューム自身がシーザーの事例で示しているように、特定の時間と関連づけてその観念を説明できるかどうか、つまり実際に起った事実として認められるかどうか、という問題になって来るのである。(時間のみでなく、空間的位置づけも問題になって来る)
(ということは、想像した事実があれば、それも「事実」なのであって、ある事象が生じれば特定の想像を呼び起こすという因果関係も成立しうる)
・・・今日は時間切れなので、このあたりで。
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<「類似原理」は確かめようがない>
豊川氏は次のように説明されている。
コピー原理は、「初めてわれわれに現れるすべての単純観念は、それに対応し、それが正確に表象するところの単純印象に由来する」(T.1.1.1.7)と定式化される。この原理は、単純印象と単純観念の間に成立する二つの関係を示している。第一に、ある単純印象と単純観念は、内容的に類似する。例えば、青の単純印象と単純観念は、われわれに現れる鮮明さの点で異なるだけで、その内容は同一である。この関係性を、「類似原理」と呼ぶことにしたい。また第二に、ある単純観念が生じるためには、その内容を共有する単純印象が先に現れている必要がある。青を観念として思い浮かべるためには、あらかじめ青が印象として知覚されていなければならない。この関係性を、「先行原理」と呼びたい。そしてコピー原理は、「第一原理」(T.1.1.1.12)と言われているように、ヒューム哲学にとって極めて重要であり。他の体系の批判の際に盛んに用いられている。(豊川氏、69ページ)
・・・上記の「類似原理」は確かめようがない。あるいは「類似」を確かめるためには写真に撮ったり、音なら録音したり、そういった因果関係に依存した事実把握に依らざるをえない、ということである。さらに、実際にそれが自分がそのときに撮影したのかどうかも、記憶の観念(心像)に基づかざるをえない。しかもそのときの「印象」など既にどこにも残っていないのである。
さらに言えば、「黄色」の単純観念がもたらされるために、その「印象」をどこに辿れというのであろうか・・・? 個人的にそんなこと覚えてなどいない。黄色のものをあちこちに見出すことはできる。しかしそれがどの「印象」に由来するのかなど確かめようがないのである。結局、黄色のものを見たことのない人と黄色のものを見たことがある人とを比較した上で因果的に、印象と観念との関係を導きだすしかないのである。
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