2019年5月14日火曜日

理念型としての「純粋経験」!

里見軍之著「純粋経験について」『待兼山論叢』第33号哲学篇(1999) 、1~13ページ
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/9361/mrp_033-001.pdf

・・・というのをたまたま見つけたのだが、(まだ読み始めたばかりであるが)
理念型としての「純粋経験」(里見氏、1ページ)
・・・という表現には正直たまげた。ここでヴェーバーか! 経験論における純粋経験とは全くかけ離れた考え方である。純粋経験が理念・・・

ただ、様々な哲学者による経験、純粋経験の位置づけを知るにはそれなりに参考にはなりそうだ。

****************

一般的に、哲学者は経験論的思考が非常に苦手な人たちのように見受けられる。というか経験論的・具体的思考の否定、抽象的思考=哲学、のように勘違いしている節がある。経験論者でさえちょっと油断すると、すぐに抽象的思考へ向かってしまいがち、抽象概念のいじくりまわしに陥ってしまうのである。

ジェイムズでさえ、経験を額面どおり受け取ると言いながら、結局は抽象的思考へ進んでしまったし・・・「理念型」と捉えられても仕方ない面があるのも事実である。

****************

そういえば、ヒュームの因果関係の分析もできたし、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』後半部分の分析の準備も整いつつあるかもしれない。


0 件のコメント:

コメントを投稿

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...