私は今何を見ているのか
http://yamaguchi-nishida.org/sanoblog/906
・・・からの引用である。
例えば今目の前に青いマーカーがありますよね。でも「青を見ている」と言ってしまうと、もう青は見ていません。だって判断してますから。見てはいない。でも判断できるんだから、何も見ていなかったわけじゃない。何を見ていたのかな?「青を見ている」の「青」は言葉だから、言葉を見ていたの?(佐野氏)・・・これはいくらなんでもひどい詭弁ではないだろうか? 誰も反論しないのが不思議でならない。
そこに見えているものを「青」と言語表現した、視覚経験と「青」という言語が繋がった、その経験を「判断」と呼んでいるのであって、”言葉を見ていたの?”とはあまりにひどい論理の誘導である。「事実其儘」はどこに行ったのだろうか?
「判断」していても、見えているものはやはり見えているのである。「青だ」と判断したとたんに見えているものが消えてなくなるのだろうか?
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