<「私」について考えていても主客未分>
以下、西田『善の研究』の冒頭部分である。
経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。(西田幾多郎著『善の研究』岩波文庫、17ページ)・・・この表現では、「判断」が加わってしまったら既に純粋経験ではないように思われてしまう。しかし西田は『善の研究』第一編において、知覚のみでなく、思惟・意志・知的直観も純粋経験であることを示そうとしているのである。多くの研究者たちがこの”矛盾”を整合的に説明しようと試みてきたが、矛盾は矛盾、ここは西田の誤りと見なすのが正解なのである。
要するに「判断」が加わったとしても、そこに「私」というものなどどこにも現れていない、一般的に「思惟」「思考」と呼ばれている経験においても、実際に何が経験として現れているのか・・・”具体的”に説明すれば良いのである。結局、そこには見えているもの・聞こえているもの・感じているもの、あるいは浮かんでいるイメージ、そして「言葉」、そういった具体的事象でしかない。そこには「私」「自己」というものなどどこにも現れてなどいないのである。
さらに言えば、「私」について考えているときでさえ、そこに”自我”というものなど現れてはいない。これも具体的に試してみれば良い。現れてくるのは、写真などに映された像、鏡に映された像、感じている感覚(情動的感覚なども)、(記憶として浮かんできた)情景やらその他の五感、そしてそれらを説明する言語、そういった具体的経験でしかない。それらはやはり「(観念的)自己」ではない。
鏡や写真に写っている像と、自ら感じている触感などの感覚、その他さまざまな経験とを因果的につなぎ合わせた上で、それを「私」と呼んでいるのである。
「私は考える」と思ったとしても、そこには「私は考える」という「言葉」と、具体的なイメージやら感覚しか現れていない。そこに観念的自己・自我などどこにも見つけることができないのである。
つまり、純粋経験から離れることなどできない、常に主客未分である。ウィトゲンシュタインが形而上学的自己などないと述べているが、まさにそのとおりなのである。
************************************
<精神集中していても、していなくても主客未分>
そして、多くの西田哲学研究者たちが勘違いしている事なのであるが・・・
精神集中していないということは、
注意があちこちに移ってしまうことである。
勉強しているのに、ついついテレビを見てしまったり、ラジオを聞いてしまったり、そういうことである。
このとき勘違いしてはならないのだが、
あくまで注意は勉強、テレビ、ラジオ、というふうに向かっているということなのだ。
そこに純粋経験の事実そのままとしての「自己意識」というものなどない。
つまり精神集中していなくても、純粋経験の事実としては主客未分であるのだ。
これは精神集中していても同じことである。
精神集中しているということは、例えば他のことに気持ちを奪われることなく、勉強している、ということである。
客観世界における理解においては、ただただ一つの対象に向かい続けている状態なのであって、「主客合一」という現象とは無関係なのである。
ただ、他のことについて考えている余地がないから、もちろん「私自身」について考えることもない。それ故に主客合一という言葉がなんだか説得力を持っているような気がしているだけなのだ。
以下の西田の説明、
たとえば一生懸命に断岸を攀ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏する時の 如き、全く知覚の連続 perceptual train といってもよい( Stout, Manual of Psychology, p.252 )。また動物の本能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うて居るのであろう。これらの精神現象においては、知覚が厳密なる統一と連絡と を保ち、意識が一より他に転ずるも、注意は始終物に向けられ、前の作用が自ら 後者を惹起しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない。これを瞬間的知覚と比較するに、注意の推移、時間の長短こそあれ、その直接にして主客合一の点にお いては少しの差別もないのである。特にいわゆる瞬間知覚なる者も、その実は複雑なる経験の結合構成せられたる者であるとすれば、右二者の区別は性質の差ではなくして、単に程度の差であるといわねばならぬ。純粋経験は必ずしも単一なる感覚とはかぎらぬ。心理学者のいうような厳密なる意味の単一感覚とは、学問上分析の結果として仮想した者であって、事実上に直接なる具体的経験ではないのである。 (西田『善の研究』20~21 ページ)・・・を読むと、集中しているときが純粋経験で、集中が途切れたときに純粋経験から「離れて」しまうように思えてしまう。しかし、私が、
純粋経験から「離れる」ことはできない
~西田幾多郎著『善の研究』第一編第一章「純粋経験」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report13.pdf
・・・で指摘したように、西田は、純粋経験における「一事実」の定義をしただけだったにもかかわらず、その 「一事実」から「他の事実」への「変化」を、「純粋経験を離れる」と誤認してしまったのである。これがおそらく『善の研究』における(西田自身の)最大の誤解、この誤解がその後の論理の混乱を招いているのだ。
あるものをじっと見ていたが、ふと時計を見たとする。それは経験の事実の「変化」であって、純粋経験から「離れた」わけではない。あくまで時計を見ているだけである。
テレビの番組を何気なく見ていたが、あるときハッと気が付いて、「あそこに映ってるのは近所に住む〇〇さんだ!」と叫んでしまったとする。これも単に叫んでしまったという経験の事実(あるいは何らかの情動的感覚やらも伴っているかもしれない)が現れた、それだけのことに過ぎないのである。
************************************
<精神集中と時間感覚>
精神集中は主客合一の問題というより、むしろ時間感覚の問題であるように思われる。上記の西田の説明からも分かるように、集中しているとき、あるいはただ魅入られるようにそのものを眺めてしまったとき、それは純粋経験の「一事実」なのであって、それらは客観的時間概念(過去・現在・未来、あるいは時・分・秒、瞬間といったもの)などにより事後的に分割・分析する以前の「一事実」なのである。さらには、”心理学者のいうような厳密なる意味の単一感覚”に応じて事後的に分析・分割される以前の「一事実」なのである。
事後的に、記憶を頼りにその経験を分析して「ドの音からレの音に変化していた」とか「赤色から青色に変化していた」と変化を認め、そこに経験の変化があったのだ、と説明することはできる(要するに厳密なる意味の単一感覚)。しかしそれはあくまで「事後的」分析である。
しかし「変化している」「推移している」と具体的に分析しないでただ集中しているような場合、やはりそれは「純粋経験の一事実」なのである。このあたりの違いはあくまで”主観的”なものであり、明確な指標により区分できるものではない。ただそう思ったのだったらそういうことなのだ。
私が、
ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
来栖哲明著「西田幾多郎『善の研究』における純粋経験について」分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report10.pdf
・・・において、既に述べてきたことであるが、純粋経験においては「時間」という経験の事実などどこにもない。ただ経験の「変化」を「認めた」、その「変化」を「時間」と呼んでいるだけ、ということである。
視覚だけではない、あらゆる感覚、情動など、様々な経験の変化を「時間」と呼んでいるのである。そして特定の物体の変化に周期性を見出し、時間という概念を当てはめているのだ。
集中している時は時間感覚がない。具体的に言えば、純粋経験の「一事実」から他の「一事実」への”変化”がない。しかし集中が途切れて別のものに気持ちが移るようになったとき、気が付けば朝だったはずが日が暮れているとか、周囲の物の変化(客観的時間とみなされる)との兼ね合いで、「時間が経つのが速く感じる」とか「遅く感じる」とかいう”主観的”時間感覚がもたらされるのではないだろうか。
これらのことを考え合わせると、
大人になってから時間が経つのが速いと感じるようになるのは、
大人になってからの方が集中力がついているからではないだろうか。
よく(?)、子どもの方が物事に夢中になれる、ように言われるが、実際には子どもは大人に比べ、注意散漫で一つのことに集中して取り組むことができない。
大人の方がより物事に「夢中に」なっている、ということが言えるのかもしれない。
竹田氏は、『エロスの世界像』(竹田青嗣著、講談社学術文庫)で次のように述べられている。
何らかの努力を維持しつつ耐えること、それが実存的な意味での時間性の源泉である。言い換えれば、「砂糖が水に溶ける」その自然科学的プロセスが時間の本質なのではない。砂糖水を飲もうとする「欲望=身体」が、それが溶けるのを待つこと、自分の欲望の「ありうる」に耐えること。ここに「時間性」の本質が存在するのである。(竹田氏、250ページ)・・・これまでの私の説明から、この竹田氏の見解は非常に的外れなものであることがわかっていただけるであろうか? そもそも「欲望」というものが具体的経験として実際に現れているだろうか?
0 件のコメント:
コメントを投稿