2019年6月2日日曜日

そもそも私的言語批判に正当性があるのか?

萬屋博喜「ヒュームにおける意味と抽象」『哲学』第63号、日本哲学会、知泉書館、2012年4月、297~311ページ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2012/63/2012_297/_pdf/-char/ja

・・・の最初の三分の一を読んだところであるが、この論文の是非を判断するために、まず二つの事について触れておかねばならない。

(1)私的言語批判そのものが正当なものなのか
(2)そもそも経験論とは何なのか


1.私的言語批判そのものの「正当性」


私的言語批判の問題点は、

「客観性」「公共性」というものでさえ、主観的判断、究極的には”経験と言葉との繋がり”へと還元されてしまう
http://miya.aki.gs/mblog/bn2017_09.html#20170905

・・・において、私が既に指摘している。私的言語批判は、

・自分自身がその言葉について理解したと思ったその根拠
・他の人がその言葉について理解したと判断する根拠

・・・この違いを無視してしまっているのだ。自らにおいては言葉と特定のイメージやら感覚とが繋がり合っている。一方、他者がいかなるイメージを描いているかなど、私は知る由もない。しかし、その人がその言葉を用いるやり方、その言葉から連想する言葉、あるいはその言葉にまつわるその人の行為、それらを見た上で、その人が本当に理解しているのかどうかある程度判断することはできる。

・・・ではその判断基準の根拠はそもそも何なのだろうか? 結局のところ、自らがその言葉と具体的経験(イメージやら感覚やら)とを関連づけることができているからこそ、さらにはその言葉・経験に付随する様々な出来事が(イメージであれ感覚であれ)具体的経験として自分自身において理解できているからこそ、他者の言語使用やら言語にまつわる行為の正当性が判断可能となるのである。

さらに言えば、他者の行為を理解する、とはいかなることであろうか? これも結局は、その人を観察した時の「(ヒューム的)印象」、そして「怒っている」「喜んでいる」という「言葉」との関連づけなのであって、結局は名辞と観念・印象との関係へ還元されてしまうのである。

「意味の使用説」と呼ばれるものも、究極的には「言葉の意味=言葉に対応する経験」説へ還元されてしまうのだ。結局は経験へ行き着くのである。

萬屋氏は以下のように説明されているが・・・
意味の観念説に対しては、以下の常套的な批判が向けられることになる。すなわち、もし意味の観念説が正しいのであれば、異なる話者同士の会話における相互理解という事象が不可解なものとなってしまう、という批判である。その批判の骨子は、次のようになる。例えば、二人の話者が猫の生態について会話しているときに、両者が「猫」という言葉で相互の意味するところを理解しているのであれば 、両者は「猫」という言葉で同じことを意味していなければならない。では、なぜ両者は「猫」という言葉で同じことを意味できるのか。ここで、各々の話者の心的イメージとしての観念に頼っても無駄である。なぜなら、話者の心的イメージは、他人が直接確かめられないものだからである。このようにして、伝統的な解釈によるヒュームの見解は、異なる話者同士の会話における相互理解という事態を不可解なものとしてしまうことになる。(萬屋氏、299ページ)
言語を介した「感情の交流」における相互理解の可能性を強調している。そのため、もしヒューム自身が意味の観念説を採用しているとすれば、以上の批判はヒュームにとって深刻なものとなろう。(萬屋氏、299ページ)
・・・その前に、萬屋氏はその”常套的な批判”が経験に則して「正当」なものなのか、そこから検証すべきであったのだ。

私とあなたが相互理解できたと思うとき、私の思い浮かべる「猫」の像とあなたの思い浮かべる「猫」の像とが完全一致せねばならないだろうか? そんな必要はないし、そもそも確かめようがない。しかし、私・あなたともに、「猫」という”名辞”とそれに対応する何がしかの観念(心像)あるいは印象というものが”セット”としてそれぞれに現れている(あるいは現れうる)、それ故に、お互いに「理解できた」と思えるのではなかろうか。

お互いに思う「猫」があり、その猫の性質やら、猫にまつわる物語やら過去の経験やら、それらを言語でお互いにやりとりし合いながら、それぞれの「猫」のイメージのズレに気づいたり修正したりすることも可能なのである。

つまり意味の観念説は「異なる話者同士の会話における相互理解という事態を不可解なもの」になどしないのだ。


2.そもそも経験論とは何なのか


萬屋氏をはじめとして、竹中氏、豊川市、澤田氏らの研究は、経験論的手法を全く無視した上で、ヒュームの言葉が分析哲学的文脈の中で”整合性”を持ちうるかどうかという検証に終始してしまっている印象を受ける。

経験論として最も重要である、以下の”経験論的手法”そのものがほとんど無視されてしまっているのである。
この人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は、経験と観察とにおかれなければならない。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、9ページ)
・・・いかに論理を駆使したところで、具体的経験として明確に現れている事実があれば、それを否定しようがないのである。
 どんな一般的名辞を用いるときでも、われわれは個物の観念を形作るのだということ、その際、これらの個物を残らず取り上げるのはほとんど、というよりけっしてできないということ、そして、取り残された個物は、その場の事情が必要とするときにはいつでも、それを呼び起こす習性によって代理を勤められるだけであるということ、これらは確かなことである。かくして、これが抽象観念、および一般的名辞の本性であり、そして、前に述べた逆説と思われること、すなわち、ある観念がその本性は個別的なのに、表現作用は一般的であるということも、このようにして説明されるのである。(ヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社:29~30ページ)
・・・それが一般名詞であろうと抽象名詞であろうと固有名詞であろうと、その”名辞”に対応するものは、常に個別的観念(あるいは個別的印象)である、それは私的言語批判というものがあったとしても、厳然とした事実なのである。そして観念=心像である。

各々確かめてみれば良い。抽象名詞であろうと、固有名詞であろうと、一般名詞であろうと、それは何か、と問われれば、具体的事物・事象を示したり、思い浮かべたりするしかないのである。

部分・全体、あるいは上・下、という”名辞”においてでさえ、それらは何なのか、具体的に示そうとすれば、特定の物や図形を持ってきたり描いたりした上で、その物における何が部分・全体なのか、何が上・下なのか示すしかないのである。(※ そのあたりは、拙著、「イデア」こそが「概念の実体化の錯誤」そのものである ~竹田青嗣著『プラトン入門』検証http://miya.aki.gs/miya/miya_report11.pdf)で詳細に説明しています)

この”事実”を無視した上で、いくら論理を駆使したところで、それは何の根拠にもなりえないのだ。



・・・萬屋氏のこの論文については、300ページ以降においても、指摘しておかねばならない問題点がある。しっかり検証しておきたい。

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