2019年6月14日金曜日

ヒュームは「意味の使用説」を支持しているわけではない

萬屋博喜「ヒュームにおける意味と抽象」『哲学』第63号、日本哲学会、知泉書館、2012年4月、297~311ページ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2012/63/2012_297/_pdf/-char/ja

・・・を一応最後まで読んだ。私なりの結論として、ヒュームが「意味の使用説」を採用していたという萬屋氏の見解には全く同意できない。萬屋氏の恣意的な解釈であるように思える。

************************
※ 本記事で引用しているのは、萬屋氏の論文を除けば、以下の通りです。
ヒューム著『人間本性論(人性論)』井上基志訳、青空文庫
URL:https://www.aozora.gr.jp/cards/002033/files/59405_66194.html
David Hume, A Treatise of Human Nature (1896 ed.) [1739]  (Editor:Lewis Amherst Selby-Bigge)
URL:  http://oll.libertyfund.org/titles/hume-a-treatise-of-human-nature
ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社
************************

萬屋氏は以下のように説明されているが・・・
「原因」や「結果」という抽象名詞には、「原因と結果についてのわれわれの判断をそれによって規制すべき一般規則」、例えば「原因と結果の間には恒常的連接がなければならない)(T1.3.15.5)という使用パターンが存在しており、その人の因果判断における「原因」という抽象名詞の使い方は、このパターンにおける「原因」という抽象名詞の使い方は、このパターンに反するもので偽なるものとして判定される。(萬屋氏、308ページ)
・・・しかし、これらの「一般規則(genera rules)」が経験からもたらされているというヒュームの主張は無視されている
(T1.3.15.5)
この原理は経験から由来し、我々の哲学的推論の大部分の源泉である。というのは、ある明白な実験によって何かある現象の原因や結果を発見したとき、我々は直ちに観察の結果を、同様の種類の全ての現象にまで拡張し、因果関係の最初の観念が由来する恒常的な反復を待たないからなのである。(ヒューム著『人間本性論(人性論)』井上基志訳、青空文庫)
This principle we derive from experience, and is the source of most of our philosophical reasonings. For when by any clear experiment we have discover’d the causes or effects of any phanomenon, we immediately extend our observation to [174]every phanomenon of the same kind, without waiting for that constant repetition, from which the first idea of this relation is deriv’d. (上記翻訳部分の原文)

・・・哲学的関係は「経験によって知らされる」ものなのである。
 ヒュームによれば、賢人は会話の主題が学問的か日常的かに応じて訂正の手続きを変える。前者の主題には、「観念の関係(relations of ideas)」(T1.3.1.1)に関する命題か「事実(matters of fact)」(T1.3.1.1)に関する命題が関わる。こうした主題では、その命題を表す判断において抽象名辞が正しく使用されているかどうかで、その「真偽(truth or falsehood)」(T3.1.1.9)が決定される。例えば、「宵の明星と明けの明星は同一である」という判断は、賢人によって「同一性」という抽象名辞が正しく使用されていると判断されれば、真であると見なされる。(萬屋氏、308ページ)
・・・T1.3.1.1.部分において、「観念の関係」「事実」という言葉を見つけることは出来ないのだが・・・とりあえずその問題は置いておいて、「真偽(truth or falsehood)」(T3.1.1.9)に関して、ヒュームの説明を引用してみる。

(T3.1.1.9)
Reason is the discovery of truth or falshood. Truth or falshood consists in an agreement or disagreement either to the real relations of ideas, or to real existence and matter of fact. Whatever, therefore, is not susceptible of this agreement or disagreement, is incapable of being true or false, and can never be an object of our reason. Now ’tis evident our passions, volitions, and actions, are not susceptible of any such agreement or disagreement; being original facts and realities, compleat in themselves, and implying no reference to other passions, volitions, and actions. ’Tis impossible, therefore, they can be pronounced either true or false, and be either contrary or conformable to reason.
理性は真または偽を見いだすことである。ところで、真偽は観念の間の実際の関係との一致または不一致にか、それとも実際の存在や事実との一致または不一致にか、そのいずれかにある。したがって、このような一致または不一致を容れる余地のないものはすべて真あるいは偽であり得ず、けっして理性の対象とはなり得ない。ところで、明らかに、情念、意志作用、行為には、そのような一致とか不一致を容れる余地はない。これらは、それ自身で完結する原初的な事実、現実であり、ほかの情念、意志作用、行為とのかかわりをなんら含んでいないからである。したがって、これらが真とか偽とか宣告されたり、理性に反したり理性と合致したりすることはあり得ないのである。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、187ページ)
・・・つまり、「真偽(truth or falsehood)」は、「観念の間の実際の関係との一致または不一致にか、それとも実際の存在や事実との一致または不一致にか」によって決まるのである。ヒュームは「観念」が真偽に必要ないとは述べていない。これは明らかである。

上記の萬屋氏の文章において、観念の関係が学問的な主題における真偽にかかわっていると述べられているではないか。抽象名辞が正しく使用されているかどうかの判断も、結局は「観念の間の実際の関係」によって決まってくる、そういうことなのである。
われわれは「シーザー」は元老院で三月十五日に殺されたと信じている。それは、歴史家たちの証言がまさしくこの時、この場所でその事件が起こったと決める点ですべて一致しており、それをもとにしてこの事実が立証されているからである。ところで、この場合、ある符号、文字が記憶か感覚機能かどちらかに現れており、そしてさらに、この符号がある観念を表す記号として使われてきたことを思い出す。・・・(中略)・・・特に言うまでもないと思うが、かつてすでに得られた結論あるいは原則をもとにして、これらが最初に生じたときの印象にあらためて頼らなくてもわれわれは推論できるのであるが、それはしかし、ここに述べた説に対する正当な反論にはならない。なぜなら、かりにこうした印象が記憶からすっかり消え去ったと仮定しても、印象が生み出した確信はなおそのまま残りうるのである。したがって、原因と結果に関する推理がすべてもとをたどればある印象から引き出されることはやはり真実であるからである。それは、ちょうど、論証の確信はつねに観念の比較から起こるが、たとえ比較が忘れ去られたあとで確信が存続しうるにしても、そのことに代わりはないのと同じことである。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、49~50ページ)
・・・私たちは「印象」に頼らなくても推論できる。しかし、結局(印象により引き出された)観念を比較することで論証するのだ、とヒュームは述べているのである。私たちは文献を読む。そこには文字しか書かれていない。しかしその文字から「観念」が引き出されるのである。

私たちは訓練により、言葉(数字・記号含む)の関係のみで算数・数学の答えを導き出すことができる。しかし、それらの究極的な根拠も、言葉と印象・観念との関連づけに遡るのだ。訓練によって印象・観念に頼らず判断できることが、言葉の意味が印象・観念ではないということにはならないのである。

さらに、「日常的」な会話においても・・・
(T1.3.13.14)
誰かが公然と侮辱するにせよ陰険に軽蔑をほのめかすにせよ、いずれの場合も直接的に(テレパシーのように)その人の感情や意見を知覚するのではなく、ただ(言葉などの)記号によって、即ち、記号の効果によってのみ、知覚できるようになるのである。それならば、これらの二つの場合の間の唯一の違いは記号に存し、公然とした感情の発露においては、一般的で万人共通な記号を使用し、秘かな仄めかしにおいては、より珍しく一般的でないような記号を使用する。この事情の効果は、即ち、目下の現存する印象から未だ現存していない観念へと動いている想像力は、関連性が一般的で万人共通な方が、より珍しく一般的でない方よりも、いとも簡単に推移を為し、その結果として、より大きい勢いで対象(の観念)を心の中に作り出すのである。それゆえに、感情の率直な告白が仮面を脱ぎ捨てることと呼ばれ、意見の秘かな暗示がベールで覆い隠すことと言われる、と観察できる。一般的な関連性によって産み出される観念と、一般的でない関連性から生じる観念との相違は、印象と観念の間の違いにも例えられよう。想像におけるこの違いは、感情に適している効果があり、しかも、この効果は別の要因によっても増大される。怒りや軽蔑の秘かな仄めかしは、相手に対してまだ配慮が有り、直接に罵倒することを避ける、ということを示している。このことは、隠された皮肉の不愉快さを減じる。しかし依然としてこのことは、同じ原理(観念の強度)に依存している。何故なら、もし観念が、単に暗示されただけのときに、明示されたときより弱くないのならば(強度の差が無いならば)、それは決して、他の明示方式の記号よりもこの暗示方式の記号の方が、相手に対してより多くの配慮を続けるとは思われないのである。(ヒューム著『人間本性論(人性論)』井上基志訳、青空文庫)
Whether a person openly abuses me, or slyly intimates his contempt, in neither case do I immediately perceive his sentiment or opinion; and ’tis only by signs, that is, by its effects, I become sensible of it. The only difference, then, betwixt these two cases consists in this, that in the open discovery of his sentiments he makes use of signs, which are general and universal; and in the secret intimation employs such as are more singular and uncommon. The effect of this circumstance is, that the imagination, in running from the present impression to the absent idea, makes the transition with greater facility, and consequently conceives the object with greater force, where the connexion is common and universal, than where it is more rare and particular. Accordingly we may observe, that the open declaration of our sentiments is call’d the taking off the mask, as the secret intimation of our opinions is said to be the veiling of them. The difference betwixt an idea produc’d by a general connexion, and that arising from a particular one is here compar’d to the difference betwixt an impression and an idea. This difference in the imagination has a suitable effect on the passions; and this effect is augmented by another circumstance. A secret intimation of anger or contempt shews that we still have some consideration for the person, and avoid the directly abusing him. This makes a conceal’d satire less disagreeable; but still this depends on the same principle. For if an idea were not more feeble, when only intimated, it wou’d never be esteem’d a mark of greater respect to proceed in this method than in the other.
・・・相手の感情や意見を受け取るのは、確かに記号やその効果によってである(’tis only by signs, that is, by its effects)。この場合のsignとは、言語表現などの記号だけでなく、手ぶり・身ぶりなども含むのであろうか・・・? ただ、いずれにせよ、それらの光景自体が「現存する印象(present impression)」なのである。しかし、そこから観念が生じるということを、上記の文章でヒュームは明言している。そして、相手の配慮の有無に対する判断も、やはり観念の強度に依存しているのだと、述べているのである。

・・・萬屋氏の言われる「徳の基準」(萬屋氏、308ページ)についても、同様のことが言えるであろう。

学問的であれ日常的であれ、その判断の「真偽」や「適切さ」には、やはり観念・印象が関わっている、これはヒュームが今更言わなくても経験的事実なのである。
ヒュームにとって、観念は人間と動物が共に行うことのできる推論において使用される心的イメージであり、幼児や動物の思考を説明するのに不可欠な役割を担っている。(cf. T1.3.16.8)しかしだからといって、われわれは言葉の意味を観念に求める必要はない。なぜなら、言葉を用いて適切に推論できているかどうかを判断するためには、他者の前で実際に証明を書いたり口頭で説明したりして確かめてもらう他ない、とヒュームは考えていると思われるからである。(萬屋氏、309ページ)
・・・これまでの私の説明で、この萬屋氏の見解がヒュームの実際の文章と乖離していることが分かっていただけるであろうか?

萬屋氏は、ヒュームの説明を無理やり「意味の使用説」として解釈するのではなく、私的言語批判そのものの誤りをヒュームの見解をもとに指摘すべきであったのだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...