2019年6月26日水曜日

形態学も因果関係に基づいている

片付けしていたら、久しぶりに『唯脳論』(養老孟司著、筑摩書房)が目にとまってしまった。それにしても、つっこみどころ満載である・・・

大森荘蔵氏は「無脳論」というもので反論を試みたようだ。少々残念である。その論文を読んだわけではないが、タイトルからして論点がずれてしまっている。

とにもかくにも、科学的知見から哲学を説明しようとするのは循環論法なのである。科学理論がどのようにして見つけられているのか、その観察・実験プロセスを全く無視した上で、科学理論があたかも所与のものであるかのように扱ってしまっているのである。

養老氏も研究の現場にいただろうに、そのあたりの経験についてまったく無頓着なのである。
自然科学は因果関係を追及すると、多くの人が、しばしば誤解しているからである。原因と結果も、もちろんある種の対応関係だが、これは先行する出来事と後に生じる出来事との間の、時間を含んだのっぴきならない対応関係である。形態学は、こうした時間的な過程であっても、つねに「時間を除いた」対応関係としてのみ捉える。なぜなら、形には、時間性はないからである。これに関する詳しい議論は、むしろ前著『形を読む』(培風館)を参照されたい。したがって唯脳論は、「心の原因としての脳」を扱うのではない。心の示す機能に「対応するもの」としての脳、あるいは脳という構造に対応するものとしての「心という機能」を扱う。これは対応関係であるから、論理的にも因果的にも、前後はない。その意味では、ここで言う唯脳論とは、基本的には形態学である。(養老氏、38ページ)
・・・これもひどい話である。具体的経験として現れる現象と脳との働きとが、具体的にどう連動しているかを、一回一回、具体的に繰り返し実験して確かめているのである。脳のある部分に電極が発生している、あるいは活性化?しているとき、その人には特定の感覚が現れている、脳の特定の部分を取り除かれると人の特定の機能が失われる、そういった具体的経験の積み重ねから形態学としての科学理論がもたらされているのである。

やはり因果関係なのだ。

因果関係として理論化されてしまえば、単なる言葉と言葉の関係に見えるから、その理論には時間という要素が外されてしまっているように思える。しかしその理論を具体的事例として検証すれば、やはりそこに時間性というものが現れてくる。


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