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言葉の意味は具体的・個別的経験(印象・観念)としてしか現れない
~萬屋博喜著「ヒュームにおける意味と抽象」の批判的分析
本稿は、萬屋博喜氏著「ヒュームにおける意味と抽象」『哲学』第63号、日本哲学会、知泉書館、2012年4月、297~311ページ
・・・におけるヒューム理解の問題点を明らかにすると同時に、萬屋氏が依拠する「私的言語批判」それ自体が誤解であることを指摘するものである。
萬屋氏のヒューム理解は、経験論の根本ともいうべきその方法論、
この人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は、経験と観察とにおかれなければならない。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、9ページ)
・・・を全く無視した上で、ヒュームの見解が私的言語批判を免れていることを証明するためにヒュームの説明を恣意的に引用・解釈しようとしている。そうではなく、上記経験論の手法に基づき、ヒュームの文章を検証した上で、私的言語批判そのものが無効であることを示す必要があったのだ。
<目次>
Ⅰ.そもそも私的言語批判に正当性があるのか?(2ページ)
1.私的言語批判そのものの「正当性」
2.そもそも経験論とは何なのか
Ⅱ.言葉の意味は、常に名辞と個別的観念・印象の関係として現れる(5ページ)
1.「すべての」鳥とはいったい何なのか?
2.他者の言語理解を、言語使用のやり方で判断すること=「意味の使用説」とはならない
Ⅲ.ヒュームは「意味の使用説」を支持しているわけではない(7ページ)
<付録:私的言語批判に関するその他のコメント>(12ページ)
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