大森荘蔵氏の『時は流れず』が気にはなっているが、その前にヒュームとジェイムズをなんとかまとめておきたい・・・
先日、以下の論文を見つけて、ざっと読んでみた。
近藤正樹著「イメージの復権を求めて--大森哲学批判」『芸術』 (22)、1999年、75~82ページ
http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou22/kiyou22_07.pdf
・・・は、ヒュームが示した問題の一つ、「想像と記憶の違いは何か」という事にも関連しているようだ。
大森氏の説明は一見荒唐無稽であり、論文著者である近藤氏の批判ももっともなものであるようにも思える。しかし、(いくつかの根本的な誤りはあるにせよ)実際の具体的経験に関して、大森氏が重要な指摘をしていることも確かなのである。そこは見逃さないようにしたい。
想起するとき、それが実体験であろうと夢であろうと、既にそのオリジナル(と思わしき)「経験」がどこにもない、見つけることができない事実、そこにあるのはただ思い起こされた(現れた)具体的感覚(見えるもの・聞こえるもの・感じるもの)、あるいは言葉でしかない事実。
経験一元論として、大森氏の見解のどこに問題があったのか・・・上記近藤氏の論文を読む限りにおいて、次のようなことが考えられる。
(1)経験”ありのまま”について説明しようとはするものの、そこに「条件」を持ち込んでしまった。条件に合っていようがいまいが、具体的に経験したのであればそれは具体的経験である。経験があって、条件(規則)が導かれる。経験の前に「条件」があってはならないのである。
(2)「実物ーコピー」という見解は「二元論」なのではなく、因果関係の問題。(具体的経験がまずあり⇒「人がものを見て意識にイメージが現れる」というのはそこから導かれる因果的説明であって、それが逆になってしまうと二元論)
(3)「言語的命題」と「知覚的想像」との組み合わせが「過去」なのであり、言語的命題のみで過去が成立するわけではない(言語だけで説明しようとするから「トートロジー」(近藤氏、77ページ)と指摘されてしまう。イメージを「過去」の出来事として説明できること、あるいは言葉で記された記録から具体的イメージへ辿ることができること(※ このあたりヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、49~50ページでも不完全な形で触れられている)、つまり言語と知覚(知覚とまとめてしまって良いのかわからないが)双方が関係していると言える。
(4)「過去内整合性」とは因果関係による経験則との合致のことであって、「整合説」も結局は「対応説」に還元されてしまう。
・・・ある人の写真と、写真に写った人の実物とをその場で見比べれば、それが正確に「写し」であることが明確に分かるであろう。私たちは、(凸)レンズで物が大きく見えることを具体的経験として知っている。ロラン・バルトらの議論(近藤氏79~80ページ)も、普通に考えれば非常に的外れである。
私たちは、「外部―水晶体―ガラス体―網膜―視神経―大脳」という一連の仕組みを文字としても、「言語的了解(思考的了解)を助ける図解」(近藤氏、98ページ:大森氏「言語的制作としての過去と夢」からの引用)としても経験しているし、それらメカニズムすべてではなくても、目をつぶれば物が見えなくなることくらいは経験で知っているし、今それを試すこともできる。他者が物を見ている状況をおそらく毎日見ているし、その人と私が同じ人間で同じような体の構造をしていることも知っている。
これら過去の経験から導き出された因果関係を経験則として知っているからこそ、自らの行為をその因果連鎖に委ねながら生活することが出来ている。
もちろん因果関係は可疑的である。本で読んだ知識が間違っているかもしれない。あるいはこれから起こる出来事が、これまでの経験則を変更させてしまう可能性を否定することはできない。しかし、この可疑性を経験則そのものの否定ととらえてはならない、経験則は経験則として既にある(そして常に思い起こすことが出来るし、場合によっては試すこともできる)。そして通常はこれらの経験則に応じて私たちは行動している、そのことも事実なのである。
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それと、近藤氏は「絵画」の問題を提示されているが(近藤氏、80ページ)、これは「過去」の問題、「コピー」の問題とは、全く別の事柄ではなかろうか?
「イメージ」の問題と言われればそうなのであるが・・・近藤氏の「イメージ」観にも問題がある。
フッサール・金田氏の言われる「像客体」(近藤氏、80ページ)というものは、「現前的に現出し、しかも仮象(Schein)である」(近藤氏、80ページ)そうなのだが・・・これこそおかしな話である。「現前的に現出」(しかも仮象)とは単なる”言葉の遊び”でしかない。
経験されているものはされている、経験として現れていないものは経験されていないのである。それだけだ。絵を見て、私たちは”何か”を感じることがある。言葉で言い尽くせないが”何か”を感じるのである。それは違和感のようなものであれ、打ち震えるような感じであれ、高揚感のような感じであれ、具体的感覚には違いないのである。それら情動的感覚、あるいは体感的感覚、さらにはその絵を見て思い浮かぶ情景、イメージ、具体的出来事、何でも良い。感じたものは感じたものであって、それが言語化されようがされまいが、具体的経験には変わりない。
具体的に感じなかったのであれば、それは感じなかったのである。「言語化」できるかできないかは、またその後の話なのである。
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<関連レポート>
哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
純粋経験論とは、具体的経験の事実そのものから哲学を構築する試みのことです。哲学史の流れの中に位置づけるとすれば、ヒューム・ジェイムズ・(最初期の)西田幾多郎の系列、そして彼らの「経験論」を究極まで徹底させようとするものです。 ホームページはこちら⇒ http://miya.aki.gs/mblog/
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