2019年6月22日土曜日

「アプリオリに対象を考察」という言語表現は矛盾している /推論とは?

澤田和範著「ヒュームの因果論における必然性の観念について」『哲学論叢』38、2011年、 61~72ページ
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/173207/1/ronso_38_061.pdf

・・・を、再び読んでいるのであるが・・・

1.「アプリオリに対象を考察」という表現自体が「矛盾」

 我々は一方の対象の印象が心に現れると、もう一方の対象の観念を思い浮かべる。これが因果推論である。この推論はアプリオリに対象を考察しただけでは不可能であり、経験がそれを可能にすることがわかる。すなわち、二対象が「恒常的随伴」の関係にあるのを経験して初めて、因果推論は起こる(T 1.3.6.3)。(澤田氏、62ページ)
・・・これおかしくないだろうか? 「対象を考察」したのである。つまり何等かの心像=観念(あるいは少なくともその観念を指し示す名前・言葉)が出て来ることが推論なのである。つまり対象を考察すること自体が「経験」なのではないか? 

要するに、「アプリオリに対象を考察」という言語表現そのものが「矛盾」なのだ。

※ ちなみに上記T1.3.6.3において上記澤田氏の説明に該当する部分は以下のとおりである。
近接と継起だけでは、二つの対象が因果関係にあると断定するのに十分ではない。いくつかの実例において二つの対象の関係が維持されることを認知して始めて、因果関係を断定できるのである。(井上基志訳『人間本詳論』青空文庫<UR>https://www.aozora.gr.jp/cards/002033/files/59405_66194.html
Contiguity and succession are not sufficient to make us pronounce any two objects to be cause and effect, unless we perceive, that these two relations are preserv’d in several instances. (Online Library of Liberty<URL>https://oll.libertyfund.org/titles/hume-a-treatise-of-human-nature
・・・ここでは「推論」とは述べられていない(pronounceである)。あくまで恒常的相伴(随伴)と必然性との関連性が検討されているのである。(ただ、『人(間本)性論』の別の箇所においては、上記澤田氏のような解釈をもたらすような説明がなされていることも事実ではあるが)

2.「推論」とは?


ヒューム研究者が(さらにはヒューム自身も)因果推論について論じるとき、そもそも「推論」とは何か、厳密な検証が抜け落ちている。
 いったい、推論とは、いかなる種類のものでも、比較すること、つまり、二つ、もしくはそれ以上の対象が互いに外に対して持つ恒常的、もしくは恒常的でない関係を見いだすことにほかならない。ところで。この比較には三つの場合がありうる。比較される対象がともに感覚機能に現れている場合、どちらも現れていない場合、一方だけが現れている場合、がこれである。
 このうち、対象がともに感覚機能に現れていて、同時に関係もそこに示されているときには、これを推論と呼ぶよりはむしろ知覚と呼ぶ。この場合には、思考は少しも働かず、もっと正しく言うと、いかなる能動的な作用もなく、ただ感覚器官を通じて印象を受動的に受け容れるだけである。したがって、この考え方によると、同一、および時間や場所の関係についてどんな観察をしようと、これを推論として受け取ってはならないのである。というのは、これらの観察のどれにおいても、対象の実在を見いだすために、あるいは対象間の関係を見いだすために、感覚機能に直接現われるものを心が超え出てゆくことはあり得ないからである。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、42ページ)
一つの対象の存在あるいは活動から、なにか別の存在あるいは活動がそれに続いて起こったのだ、もしくはそれより先にあったのだと確信させる、そういう結合を生み出すのは、因果性(だけなのである。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、42ページ)
・・・「対象がともに感覚機能に現れていて、同時に関係もそこに示されている」のを推論とは呼ばない、というのはもっともな説明ではある。しかし因果関係に関して、ヒュームの見解にはブレがあるようにも思える。必然性があると判断された因果関係と、必然性が見つからないがとにかく因果推論した場合との違いが見逃されているようにも思えるのだ。推論についてより厳密に考えて見ると、次のような状況が考えられる。

①ある現象が現れているが、その現象が引き起こしうる結果、あるいはその現象の原因が見つからない、想像もつかない状態
②ある現象の結果あるいは原因を(観念=心像)として想像はするがそれが見つからない場合(あるいは言語表現のみの場合もありうる)
③結果・原因ともに具体的経験として現れているが、ただそれらが原因・結果であると見なしただけ
④結果・原因ともに恒常的相伴(随伴)が認められる場合

・・・とくに④はもはや推論とは呼ばないであろう。「対象がともに感覚機能に現れていて、同時に関係もそこに示されている」事例であるように思えるのだが・・・③については場合によって推論とみなされたりそうでなかったり、その境界はあいまいなような気がする。(また、ヒュームは私たちが日常的に試行錯誤しながら因果推論を積み重ね、更新していくケースなどについて考察すべきであったとも思う。)
二対象が「恒常的随伴」の関係にあるのを経験して初めて、因果推論は起こる(T 1.3.6.3)。(澤田氏、62ページ)
・・・とあるが、恒常的随伴の関係にあるのであれば、既に「推論」とは言えないのではなかろうか。


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