https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2012/63/2012_297/_pdf/-char/ja
・・・をだいぶ読み進んだが・・・ヒュームの説明を部分的に取り出して、分析哲学の文脈と整合的であることを示したところで、(繰り返すが)以下の経験論の手法そのものを無視してしまっては何にもならないのである。
この人間の学自体に対して与えうる唯一のしっかりした基礎は、経験と観察とにおかれなければならない。(ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社、9ページ)・・・前記事に続き、また二点指摘しておきたい。(まだまだ他にもあるのだが、『人(間本)性論』の本文を吟味しながら検証していきたい。)
1.そもそも「すべての」鳥とはいったい何なのか?
具体的経験として現れているものが「すべて」であって、抽象概念が「可能的に現れる」ものまで網羅する必要があるのだろうか?
名辞に対応して個別的観念が現れる。観念(さらには印象)に応じて名辞が現れる。「言葉の意味」とは、常に言葉と経験(個別的観念・印象)の関係として現れるのである。
「すべて」の鳥と言ったところで、「可能的に現れる」と思われた次の鳥も、やはり具体的・個別的な印象・観念として現れるのみである。
つまり、どこまでも具体的・個別的な”名辞と観念・印象との個別的関係”としてしか、現れることがない。抽象概念と呼ばれるものであっても、具体的経験としては、そうとしか現れない、これが事実なのだ。
私たちが「三角形」について説明するときも、やはり個別的・具体的な三角形を描いて見せるしかない。それがその時点における「代理」あるいは「代表」とはなっている。
しかしその個別的三角形が、他の三角形を「包摂」しているのかというと、そういうわけでもない。次に現れるのは、また別の大きさや線の長さを持った個別的三角形なのである。
しかし実を言うと私は、一般観念を説明する共通の方法によって、一般観念の不可能性について証明した先の記述に主要な信頼を置く。我々はこの論点について、新しい体系を確かに捜さなければならないが、私が提案したもの以外には無いことは明白である。もし観念が本性上、個別的でかつ同時に有限の数ならば、ただ習慣によってのみ、観念はその代表において一般的になることができ、また、代表の下でその他の無限の観念を含むことができるのである。(ヒューム著『人間本性論(人性論)』井上基志訳、青空文庫「第七節 抽象観念について」よりURL:https://www.aozora.gr.jp/cards/002033/files/59405_66194.html)・・・「有限」ならば「無限」の観念を含むという説明はよくわからないが・・・観念とはどこまでも「個別的」なものなのである。そして上記の説明は、萬屋氏の言う「すべて」の否定になっていないだろうか?
2.他者の言語理解を、言語使用のやり方で判断すること=「意味の使用説」とはならない
意味の使用説の問題点については、前記事でも触れたが、
「客観性」「公共性」というものでさえ、主観的判断、究極的には”経験と言葉との繋がり”へと還元されてしまう
http://miya.aki.gs/mblog/bn2017_09.html#20170905
・・・で指摘している。
ヒュームが、”「ソクラテスは人間である」という判断や述定において「人間」という抽象名辞を使用できることが、「人間」という抽象名辞の意味を理解することだという考え”(萬屋氏、303ページ)に基づいていたのかどうか、後日、本文を読んで確かめてみようと思う(少なくとも「「抽象観念について」の節ではそのようなことは述べていないと思うのだが・・・)。
いずれにせよ、他者が言葉を理解しているのか判断するためには、(その言葉が指し示すもの、そのものがお互いの目の前に存在していない限りは)その人がその言葉をいかに用いるか、その言葉に関連していかなる行為・あるいは反応をするか、によって判断するしかない。
しかしそれは「意味の使用説」の根拠にはならない。他者の言葉の使用に関して「正しい」かどうか分かるためには、自分自身がその言葉の意味、つまりその言葉が何を指し示しているのか、具体的観念あるいは印象として示すことができなければならないからである。
いずれにせよ、萬屋氏のヒューム理解は分析哲学へ引き寄せすぎている印象だ。
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