2018年11月4日日曜日

Ⅰ.知覚・信念とは?

小口峰樹著「知覚は矛盾を許容するか?」『Citation Contemporary and Applied Philosophy (2014)510161032ページ

・・・の分析です。3章構成になる予定です。

(※ 2019年4月20日:下記のブログ記事で完結させました。)
科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法
https://keikenron.blogspot.com/2019/04/blog-post_20.html

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 「概念主義」「非概念主義」の議論は、「知覚」とは何か、何のことを指しているのか、そこがまったく不明瞭なまま置き去りにしてしまっているのだ。
 そしてその不明瞭さをもたらす一つの要因として、「概念」という用語の問題がある。それについては、拙著「経験とは?経験論とは?」(http://miya.aki.gs/miya/miya_report19.pdfで既に説明した。
 「概念」と示されているものは、具体的には言語表現とそれに対応するイメージ・心像・感覚とのセットのことなのである。「概念」という言葉でひとからげにすることで、具体的経験が実際にどのようになっているのか覆い隠されてしまっているのである。「概念」そのものを“実体化”させ、概念という“何者か”が存在しているかのように錯覚してはならない。「概念」と表現されているものの、実際の具体的経験として何を指しているのか、そこを見極める必要があるのだ。


2.「信念」とは何なのか?

 「信念」という言葉も問題をややこしくしている。具体的経験としては、単に見えているものを「リンゴだ」と思った、そういった

単なる言葉とイメージ・心像・感覚との繋がり

・・・でしかないものが、

知覚経験⇒信念・判断

・・・という因果関係にすり替えられてしまっているのだ。そして「信念」というものは何なのか・・・と問われても、それが何か明確に示すことができない、明らかなのはやはり言語表現と感覚やイメージとの繋がりでしかないのである。
たとえば、明けの明星が宵の明星と同一であることを知らない人物は、「火星は明けの明星であり、かつ、宵の明星ではない」という内容の信念をもつことができる。それゆえ、〈明けの明星〉と〈宵の明星〉はたとえ指示対象が同一であるとしても異なる概念である。通常、信念を構成する内容は概念的なものであり、この認知的意義の原理が適用可能であると考えられている。(小口氏、1019ページ)
・・・”「火星は明けの明星であり、かつ、宵の明星ではない」という内容の信念”とは結局のところ「火星は明けの明星であり、かつ、宵の明星ではない」という言語表現である。その言語表現が「正しい」「間違い」とされるのは、「火星」「明けの明星」「宵の明星」という言葉とそれが指し示す対象物との関係で示される。
 小口氏は、「信念を構成する内容は概念的なもの」(小口氏、1019ページ)とされているが、具体的に検証してみれば、結局のところ、言語表現とそれに対応する対象物(突き詰めれば知覚経験あるいは心像)との繋がりでしかないのである。繰り返すが、「概念」とは言語表現とその「意味」としての対象物(感覚やら心像やら)のセットのことなのである。
 
 「信念」を情動的側面から説明しうるかもしれない。「信念」とは感覚的経験の言語表現に対し“自信”・“確信”があるような状況であるようにも思われる。
 では「自信」「確信」とは何であろうか? 具体的にどのような感覚であるかと聞かれても、うまく答えられない気がする。単に不安感やら違和感のようなものがない状態かもしれないし、安心感のようなものなのかもしれない。あるいはもっと別な感覚なのかもしれない。あるいはシチュエーションにより全く別の感覚であるにもかかわらず「自信がある」「確信がある」と一括して判断されているのかもしれない。「自信」「確信」という言葉の意味一つとっても非常に不明瞭なのである。私たちにとってあまりに当たり前すぎて情動的感覚すら湧いてこない事柄もあろう。事実把握(感覚などの経験の言語表現)に対し情動的感覚が湧いて来るのはむしろそれを疑っている場合であるのかもしれない。
 ただよく考えて見てほしい。 拙著「経験とは?経験論とは?」で説明したが、結局のところ、言語表現も“絞り出された”もの、”所与“でしかないのである。見えているものを「リンゴだ」と思えても「バナナ」だとは思えない、あるいは「リンゴかもしれないがそうでもないかもしれない」「それが何だか分からない」というふうに、”答え“は所与の経験として、確かな言語表現、あるいはあやふやな言語表現、あるいは言語表現できない、という形で、いやおうなしに出てしまっているのである。それこそが信念・確信なのである。


3.「知覚経験」とは何なのか?

 ここまで述べた「概念」「信念」という用語の問題点が、「知覚」「知覚経験」というものの曖昧さをもたらしている。繰り返すが、具体的経験としては、

(1)何か感じた(見えた・聞こえた・・・など)
(2)その感覚を言語表現した(できない場合もある)

・・・という事実だけなのである。いったい「知覚」「知覚経験」とは(1)のことなのか、(1)と(2)双方を含むものなのか、(1)のみを考えれば「非概念的」であるし、(1)と(2)双方考えれば「概念的」である。この違いを明確にしなければそもそも議論自体が成立しないのではなかろうか? (そして議論するまでもないような気がするのであるが)
 非概念主義のクレインは「知覚経験は信念とは異なり」(小口氏、101ページ)としている一方、概念主義者は「知覚経験は信念や判断と同様に概念的に構造化された内容、すなわち概念的内容を有していると主張する(cf.McDowell 1994; Brewer 1999; 門脇 2005; 小口 2008;2011」(小口氏、101ページ)。しかし上記(1)と(2)双方を含め「知覚経験」とするのであれば、当然「知覚経験」=「信念」「判断」となるし、上記(1)のみを考えれば「知覚経験は信念とは異なる」となる。 
概念主義は主に知覚経験が知覚信念に対して果たす正当化役割をめぐる考察から動機づけを得ている。概念主義者によれば、知覚経験は知覚者に対してそれに対応する知覚信念を抱くための理由を与えるものでなければならない。しかしながら、もし知覚経験が備える内容が非概念的なものであるとすれば、知覚経験はそういった正当化役割を演じることができない。それゆえ、知覚経験は信念と同様に概念的に構造化された内容を備えていなければならない。(小口氏、101102ページ)
 ・・・「知覚経験」と「知覚信念」という用語が紛らわしいのだ。(上記(1)と(2)を知覚経験とするのであれば)同じことを指しているにもかかわらず、あたかも別のものであるように見せかけているのだ。

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