空間の観念が目に見えるかあるいは触れられる対象の配列から受け取られると同様に、われわれが時間の観念を形作るのも観念や印象の継起によるのであって、時間がそれだけで現れたり、心に気づかれたりするのは不可能である。われわれが継起する知覚を持たないときにはどんな場合でも、たとえ対象に実際には継起があるとしたところで、われわれは時間についてなにもい知ることはできないのである。時間は、それだけで心に現れたり、動かず変化しない対象に伴って心に現れたりはできず、つねに、ある変化する対象の知覚しうる継起によって見出される、と結論してもよかろう。・・・ヒューム理論における「観念」という用語の使い方にブレがあることはここでは置いておいて・・・要するに時間という心像やらイメージ、具体的感覚というものなどどこにも現れてはいない、ということなのである。
しかしながら、時間の観念が起因するのは、ほかの印象と混じり合い、しかもほかの印象からはっきり判別されるような、そういう一つの特殊な印象なのではない。そうではなくて、印象が心に現れる、その仕方からのみ生じるのであり、印象の数の一つをなしてはいないのである。横笛で鳴らされる五つの音は、われわれに時間の印象と観念を与える。しかし、時間は聴覚、またはどれかほかの感覚機能に現れる六番目の印象なのではない。また、心が反省によって自らのうちに見出す六番目の印象といったものでもない。心はただいろいろの音が現れる仕方に気づくだけである。(ヒューム著『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社:35~36ページ)
私たちが体験・経験しているのは、あくまで具体的経験(感覚やら心像やら)の継起なのであって、継起が見られないとき「時間の流れ」というものもそこにはないのである。
経験の継起とは、見えるもの、聞こえるものだけではない。ふと浮かんできた情動的感覚やら、体の感覚やら、言葉やら・・・浮かんできたすべての経験における継起なのである。
そして、ここで最も重要なことは、
・私たちは「時間」を経験しているのではない
・私たちは「今」「現在」を経験しているのではない
・・・ということなのである。
拙著、
哲学的時間論における二つの誤謬、および「自己出産モデル」 の意義
http://miya.aki.gs/miya/miya_report17.pdf
・・・は上記ヒュームの見解を局限まで突き詰めたものであると言える。別にヒューム理論を参考にしたつもりはないのだが、改めて上記文章を読んでみると、ヒュームと私の見解にかなり共通点があることが、改めて分かる。
<関連ページ>
入不二氏、泉谷氏らのマクタガート分析などについてです。「時間が実在しない」というところは良いのですが、その視点が徹底されていない、時間をエポケーしきれていない、ただ概念(言葉)をいじくりまわしているだけの印象を受けます。
「現実性」とは、実際の具体的経験のことにほかならない
http://miya.aki.gs/mblog/bn2018_03.html#20180328
「変化」は「潜在的」ではなく、具体的経験である/時間が流れているのではなく、経験が変化しているだけ
http://miya.aki.gs/mblog/bn2018_04.html#20180401
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