2018年11月2日金曜日

「原因」「理由」「論理」に明証性などない、それ自体が臆見(ドクサ)を伴う自然的態度

しまうまのメモ帳
竹田青嗣の現象学解釈を検証する (3)
http://tsunecue01.hatenablog.com/entry/2018/10/13/220440

・・・のコメントへの回答です。

>「常にそうである」ということが「必然」そのものであるというのは、どのようなことを意味しているのでしょうか。いうまでもないことですが、「常にそうである」ということと「必然」は、辞書的な意味は同じではありません。

・・・「常にそうである」ことが「必然」ということである、正直、こんなに「当たり前」すぎることに多くの哲学者が同意できていない事実に愕然とすることはあります。(例えば論理学の位置づけについて)常にそうならなければ当然「必然」と呼べるわけがありませんし・・・

そもそもが「辞書的な意味」とは何でしょうか? 言葉の意味は辞書が決めるのですか? 辞書に書かれている「意味」とはいったい何でしょうか? そういう根源的なことから問うこともなしに、哲学をしているのでしょうか・・・?

「恒常性」「恒常的相伴」とは現代科学で言われる「再現性」のことでもあります。同じようにすれば(ある事象が生じれば)常に同じ結果が得られる・・・ヒュームの見解はまさに現代科学における客観性そのものであると思います。

そして、因果関係という一種の「論理形式」の”必然性”を担保するものなどどこにも見つけることはできません(おそらくしまうまさんの言われる「ゆえん」とはその論理形式の必然性のことではないかと思われます)。それはヒュームも指摘しています。因果関係が想定される事象(経験)と事象(経験)との間に、何らかの「力」やら「作用」やら「はたらき」やら、そういったものを見つけ出そうにも見つかることなどないのです。因果関係は細分化はされますがいくら細分化しても、終ぞそういった「力」「はたらき」へ辿り着くことはないのです。それらはあくまで”想像的概念”であって、いくらそのようなものを主張しても、それを実証できる術などどこにもないのです。(多くの哲学者が何の根拠もなく「はたらき」やら「作用」やらの用語をやたら用いるのにうんざりしています)

事象と事象との「近接」「継起」「恒常的相伴」それこそが因果関係の「必然性」を導くものであって、それ以外のものなどどこにもないのです。そしてその「必然性」が絶対的なものかどうかを保証することもできません。

****************

おそらくですが・・・なんでもかんでも「論理的に」証明できなければ納得できない思考回路になっているのではないかと思うのです。学校で数学を習うことでスポイルされてしまうのかもしれません。

「経験」について、考え方(?)が全く逆向きなのだと思います。

少し説明したくらいでは分からないかもしれませんが、

経験を論理で説明することはできない、
経験から論理が導かれている

・・・ということです。現れてくる経験はただ現れてくるのみ、それが論理やら理由やら原因やらを伴って現れてくるのではないのです。

そこにあるものを「リンゴだ」と思ったり呼んだりしたこと、
ある感覚を感じて「痛い」と言ったこと
あるものを見て「赤い」と思ったこと

ある感覚と言語とが繋がった経験、そのものは疑いようのない明証性を持つものだと思います。一方、竹田氏やその他の哲学者たちは「赤く見えたこと」は疑いようのないことだ、というふうに、明証性における「言語」の位置づけをあやふやにしてしまっています。「赤く見えた」という言語表現そのものは明証性を有する経験であっても「赤く見えた」のかどうかは可疑的なのです。

そして、それらの経験はただそれだけとして現れている、その経験それ自体は理由やら原因やら論理やらそういったものを全く伴って現れているわけではないのです。そういったものの保証など関係なしにただ現れて来ている、ということです。

つまり「原因」「理由」「論理」には明証性などない、それら自体がまさに臆見(ドクサ)を伴った”自然的態度”である、ということなのです。

では原因・理由・論理、そういった経験どうしの関係はいかなる場合において認められているのか、どのような経験をもって「原因」「理由」「論理」と呼んでいるのか、そういう考え方なのです。

*************************

しまうまのメモ帳
http://tsunecue01.hatenablog.com/

における

コメントの付け加えです。

>「「表象」という言葉を安易に用いることで、実際の具体的経験があやふや、あいまいにされていないか、と思うのです」とのことですが、おそらくカントの議論の進め方はこれとはまったく逆向きだったのではないか、つまり、われわれの認識が成立していることから逆算して、その可能性の条件を割り出しているのではないかと理解しています。

・・・その「認識が成立している」という表現が、具体的事実を覆い隠している、ということなのです。そこに「概念」やら「表象」という用語を用いることで、成立している具体的経験がいかなるものなのか、分からなくなっている、ということを指摘しているのです。

「認識が成立している」とはいったいどういうことを言うのでしょうか?

0 件のコメント:

コメントを投稿

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...