2020年7月20日月曜日

ヒューム『人性論』分析:「存在」について

ヒューム『人性論』分析:「存在」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report30.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「存在」に関するものです。存在に関しては、「存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じもの」というヒュームの言葉が既にその解答になっているように思えます。存在の有無(に対する信念)は究極的には知覚の有無にたどり着くのです。
 しかし、存在の信念の「原因」を問う過程でヒュームは思考の袋小路に入ってしまったように思えます。因果関係、そして同一性・恒常性に関するヒューム自身の誤解が、説明を混乱させているのです。

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 本稿は、ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)における「存在」に関する分析である。
 存在に関しては、「存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じもの」というヒュームの言葉が既にその解答になっているように思える。存在の有無(に対する信念)は究極的には知覚の有無にたどり着く。
 しかし、存在の信念の「原因」を問う過程でヒュームは思考の袋小路に入ってしまったように思える。結局のところヒューム自身が言うように、いろいろ哲学者が論証を試みたところで、私たちはその論拠ゆえに存在を確信していると言い切れるわけではないのだ。
本文中で詳細に説明するが、以下の三つの論点が特に重要であるように思える。
 
① 因果推論に知覚の恒常的相伴(習慣)は必ずしも必要ではない。因果推論に「基本原則」など必要ない。ヒュームは因果推論ができるようになる「原因」と、因果推論の客観的正しさの根拠づけとを混同してしまっている。この混同が、存在の信念についての説明を混乱させている。
② 因果関係や存在に対する信念の“原因”を一元的に説明することはできない。「知性」とか「理性」とか「習慣」とか「想像」とかいう概念で一元的に説明されるわけではない。
③ 同一性・恒常性は、差異・変化と同じく知覚経験として現れるものであって、どちらかだけを懐疑するのはおかしい。

・・・上記論点に関して、ヒューム因果論の問題点については、
ヒューム『人性論』分析:「関係」について 
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf

③の問題については、
ヒューム『人性論』分析:「同一性」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report29.pdf

・・・で既に説明しているので、参考にしていただければ幸いである。
 なお、本稿における引用部分は、すべて上記『人性論』(中央公論社)からのものである。


<目次> ※()内はページ

Ⅰ.存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じもの(2ページ)
Ⅱ.「原因」を問うても究極・単一の答えは出てこない(6ページ)
(1)「物体があるのかないのか」ではなく「物体があると思っている」という事実の明証性
(2)原因を問うても様々な答えが可能である
(3)知覚は感覚機能ではない
(4)知覚経験の分類は想像によるものではない
(5)原因を知らなくても存在していると思っている
Ⅲ.「原理」ではなく個別的な因果的知識の集積(12ページ)
(1)「整合性」は過去の経験に基づく因果的知識
(2)因果推論に恒常的相伴は必ずしも必要ではない


2020年7月16日木曜日

経験がいかに知識をもたらすかではなく、知識がいかに経験として現れているか、そこが問題

今は、ヒューム『人生論』分析:「存在」について・・・を書いているところです。だいぶ進んだし、論点は明確なのですが、文章がまだおかしいので、修正を何度か加えて公開しようと思います。

以下の文章は、その次の、「経験論における経験の位置づけとは」(仮題)に加えるかもしれない(もちろん修正しますが)文章です。

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印象⇒観念、という因果関係の恒常的相伴は、絶対的真理であろうか?

・・・どのようにその真偽を確かめうるのか、具体的に考えてみてほしい。まず私たちが思い浮かべる何等かのイメージ(=観念)がある。ではそのイメージに対応する印象というものを経験した記憶というものを必ず辿れるであろうか?
 もちろん、見たことがあるものだ、というふうに辿れるものも多い。しかし、何せ小さいころの経験であろうから覚えていない、そういうものも多いのではないだろうか?
 たとえば、黄緑色をイメージすることはできるであろう。しかし私たちが生まれてから最初に黄緑色をイメージした記憶というものを、いちいち覚えているであろうか? そしてその前に黄緑色のものを見たという記憶を辿れるであろうか? 私たちが出来るのは、黄緑色を今イメージすることと、実際に黄緑色をした物がこの地球上に、あるいは身近に存在しているという事実を確認すること、そしておそらく私はそれらを小さい頃に既に見ているであろう、という推測である。
 実際のところ、実際に見ている可能性は高そうであるが・・・私自身に起こった出来事として事実としての印象と観念との関連付けは非常に難しいことなのである。
 ただ、私たちはイメージとしての黄緑色と、実物としての(例えば若葉とか色鉛筆とか)黄緑色とを指し示したり(イメージしたり)できる、確実なのはそこまでである。
 別に私は印象⇒観念、という因果関係が成立しえないと言っているのではない。ただそれは絶対的真理ではなく、因果関係であるからには、あくまで蓋然性(probability)としての事実関係把握だ、ということなのである。ひょっとして、印象⇒観念、という枠組みに収まらない経験がどこかにあるかもしれない。私たちは赤ん坊のころからのすべての記憶を保持しているわけではないのだ。完全なる恒常的相伴を確かめることは困難、というか不可能であるように思われる。
 知識や思考が印象としての知覚経験のみからもたらされるのかどうか、という問いは、絶対に正しいと言える結論に行き着くことはない。
 そして、経験論の課題として、印象⇒観念、という枠組みはさして重要なことではない。そもそも問い方を間違えているのだ。既に説明したように、ヒュームは因果関係における経験の位置づけを見誤っている。因果関係だけでなく、その他の“哲学的関係”の説明においても同様だ。経験がいかに知識をもたらすかではなく、知識がいかに経験として現れているか、そこが問題なのだ。
 そこを見誤っているから、知識や因果関係や同一性や信念やらが経験からもたらされるときに「習慣」やら「知性」やらというものが“介在”するかのように分析せざるをえなかったのである。

<参考文献>
ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf


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