http://miya.aki.gs/miya/miya_report30.pdf
・・・ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)分析の続編、「存在」に関するものです。存在に関しては、「存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じもの」というヒュームの言葉が既にその解答になっているように思えます。存在の有無(に対する信念)は究極的には知覚の有無にたどり着くのです。
しかし、存在の信念の「原因」を問う過程でヒュームは思考の袋小路に入ってしまったように思えます。因果関係、そして同一性・恒常性に関するヒューム自身の誤解が、説明を混乱させているのです。
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本稿は、ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)における「存在」に関する分析である。
存在に関しては、「存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じもの」というヒュームの言葉が既にその解答になっているように思える。存在の有無(に対する信念)は究極的には知覚の有無にたどり着く。
しかし、存在の信念の「原因」を問う過程でヒュームは思考の袋小路に入ってしまったように思える。結局のところヒューム自身が言うように、いろいろ哲学者が論証を試みたところで、私たちはその論拠ゆえに存在を確信していると言い切れるわけではないのだ。
本文中で詳細に説明するが、以下の三つの論点が特に重要であるように思える。
① 因果推論に知覚の恒常的相伴(習慣)は必ずしも必要ではない。因果推論に「基本原則」など必要ない。ヒュームは因果推論ができるようになる「原因」と、因果推論の客観的正しさの根拠づけとを混同してしまっている。この混同が、存在の信念についての説明を混乱させている。
② 因果関係や存在に対する信念の“原因”を一元的に説明することはできない。「知性」とか「理性」とか「習慣」とか「想像」とかいう概念で一元的に説明されるわけではない。
③ 同一性・恒常性は、差異・変化と同じく知覚経験として現れるものであって、どちらかだけを懐疑するのはおかしい。
・・・上記論点に関して、ヒューム因果論の問題点については、
ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
③の問題については、
ヒューム『人性論』分析:「同一性」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report29.pdf
・・・で既に説明しているので、参考にしていただければ幸いである。
なお、本稿における引用部分は、すべて上記『人性論』(中央公論社)からのものである。
<目次> ※()内はページ
Ⅰ.存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じもの(2ページ)
Ⅱ.「原因」を問うても究極・単一の答えは出てこない(6ページ)
(1)「物体があるのかないのか」ではなく「物体があると思っている」という事実の明証性
(2)原因を問うても様々な答えが可能である
(3)知覚は感覚機能ではない
(4)知覚経験の分類は想像によるものではない
(5)原因を知らなくても存在していると思っている
Ⅲ.「原理」ではなく個別的な因果的知識の集積(12ページ)
(1)「整合性」は過去の経験に基づく因果的知識
(2)因果推論に恒常的相伴は必ずしも必要ではない