以下の文章は、その次の、「経験論における経験の位置づけとは」(仮題)に加えるかもしれない(もちろん修正しますが)文章です。
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印象⇒観念、という因果関係の恒常的相伴は、絶対的真理であろうか?
・・・どのようにその真偽を確かめうるのか、具体的に考えてみてほしい。まず私たちが思い浮かべる何等かのイメージ(=観念)がある。ではそのイメージに対応する印象というものを経験した記憶というものを必ず辿れるであろうか?
もちろん、見たことがあるものだ、というふうに辿れるものも多い。しかし、何せ小さいころの経験であろうから覚えていない、そういうものも多いのではないだろうか?
たとえば、黄緑色をイメージすることはできるであろう。しかし私たちが生まれてから最初に黄緑色をイメージした記憶というものを、いちいち覚えているであろうか? そしてその前に黄緑色のものを見たという記憶を辿れるであろうか? 私たちが出来るのは、黄緑色を今イメージすることと、実際に黄緑色をした物がこの地球上に、あるいは身近に存在しているという事実を確認すること、そしておそらく私はそれらを小さい頃に既に見ているであろう、という推測である。
実際のところ、実際に見ている可能性は高そうであるが・・・私自身に起こった出来事として事実としての印象と観念との関連付けは非常に難しいことなのである。
ただ、私たちはイメージとしての黄緑色と、実物としての(例えば若葉とか色鉛筆とか)黄緑色とを指し示したり(イメージしたり)できる、確実なのはそこまでである。
別に私は印象⇒観念、という因果関係が成立しえないと言っているのではない。ただそれは絶対的真理ではなく、因果関係であるからには、あくまで蓋然性(probability)としての事実関係把握だ、ということなのである。ひょっとして、印象⇒観念、という枠組みに収まらない経験がどこかにあるかもしれない。私たちは赤ん坊のころからのすべての記憶を保持しているわけではないのだ。完全なる恒常的相伴を確かめることは困難、というか不可能であるように思われる。
知識や思考が印象としての知覚経験のみからもたらされるのかどうか、という問いは、絶対に正しいと言える結論に行き着くことはない。
そして、経験論の課題として、印象⇒観念、という枠組みはさして重要なことではない。そもそも問い方を間違えているのだ。既に説明したように、ヒュームは因果関係における経験の位置づけを見誤っている。因果関係だけでなく、その他の“哲学的関係”の説明においても同様だ。経験がいかに知識をもたらすかではなく、知識がいかに経験として現れているか、そこが問題なのだ。
そこを見誤っているから、知識や因果関係や同一性や信念やらが経験からもたらされるときに「習慣」やら「知性」やらというものが“介在”するかのように分析せざるをえなかったのである。
<参考文献>
ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
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