2020年9月13日日曜日

厳密にいえば、純粋経験論というよりは根本的経験論の方が正確ではあるのだが・・・

今、ジェイムズ著『純粋経験の哲学』(伊藤邦武編訳、岩波書店)の、「純粋経験の世界」を原文と照らし合わせながら読んでいるのだけれど、 

「実在」という言葉は大仰な感じがするけど、なんだ結局「リアルreal」ってことじゃないか・・・ 
(ヒューム『人性論』の”蓋然性”も、日本語では何を言っているのか分かりにくいがprobabilityと分かれば、あぁそういうことか、と理解しやすい)

 本ブログタイトルにもなっている「純粋経験論」、実際には「根本的経験論」radical empiricismの方がより正確かな、と前々から思ってはいたのだけれど、どうしようか・・・ 

「純粋経験」というのは誤解を生みやすい言葉だし、ジェイムズにおいては、すべての経験を包括はしていない、特定の状況における特定の経験であるようにも説明されている。 

そして一部では純粋経験なんてあるのか、とかいう議論もされていたり、 
純粋経験とは実際には経験されていないもの(物自体のような)というような理解をされてしまっていたり、 
そういう誤解を招かないためには、やはり「根本的経験論」の方が間違いがない気はする。 

でも純粋経験という言葉の方がメジャーだし・・・
radicalという言葉に極端なものを表すようなイメージがある気がする。根本的経験論は、確かに経験論を徹底するものではあるが、急進的とか過激とかいうものでもない。 実際に経験したものをただ説明するだけの話、なんのことはないのだが。 

 ・・・とりあえず、「純粋経験の世界」じっくり読んでます。

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