野矢茂樹著『論理学』のゲーデルに関する内容は、あまり納得できるようなものではなかったが、それは私の理解が足りないからかもしれないので、今はいったん保留して、論理学の初歩をもう一度おさらいする意味で、前原昭二著『記号論理入門[新装版]』(日本評論社)を時間のあいたときに、少しづつ読み進めているところである。
『論理学』を読んで、その手法にどうにも納得できなかった論理の「無矛盾性」や「完全性」について『記号論理入門』で再確認したい。
論理学に関して検討したい論点はだいたい次のようなものである。
1.論理とは
論理とは「ことばとことばの関係」(野矢茂樹著『入門!論理学』中公新書:7、17、31、74ページ)と野矢氏は述べられているが、それならば「ことばとことばの関係」がある時は正しいと思われ、ある時は間違っていると思われる、その根拠はどこにあるのか? 野矢氏はそこの部分の考察が欠けているように思われるのである。「脈略」(『入門!論理学』7ページ)があるとかないとか、あるいは「意味上のつながり」(『入門!論理学』9ページ)があるとかないとか思われる、その根拠は何なのであろうか?
野矢氏自身が明確な答えを出していないようであるが、野矢氏自身の言葉”「実質的」証明”(『論理学』205ページ)と関連している部分もあるかもしれない。
2.演繹とは
構文論における「形式的証明」は本当に「意味内容を捨象した」(『論理学』205ページ)ものであると言えるのであろうか?
形式による演繹的証明の真偽における位置づけというものが、論理学では誤解されているような気がしている。演繹とはあくまで「推論」である(もちろんその推論の正しさに対する信頼感というものはその推論内容により異なってくるが)。私たちの生活実感からもたらされた常識的論理から抽出された公理系、そこから演繹するということは、その公理系を支持するための一般的世界観が不変であるという前提を維持することなのである。
演繹的証明は絶対的真理を示すものではない。あくまで一定の環境下における推論のやり方を示したものにすぎないのである。
3.直観主義の誤解
ということは、直観主義の論点そのものがずれている、ということにもつながる。公理系からの演繹とはあくまで仮説構築であって、絶対的真理を示すものではない。絶対的真理と仮説構築とを混同しているのが直観主義であるとも言える。
排中律に関しても「概念のあいまいさ」(『論理学』164ページ)があれば成立しないのである。これは「論点」(『論理学』164ページ)の問題ではない。無限の問題を考慮する以前に排中律は常に成立する真理ではないことは明らかなのだ(『入門!論理学』の方では概念のあいまいさの問題がもっと明確に扱われているような印象を受けたが)。
つまり排中律は、概念の境界が明確である(より正確には言葉と対象との関係にあいまいさがなく、明確に線引きできる状態である)という条件を満たした上で成立する論理なのである。
また、私たちにとって未知の世界はあくまで未知の世界なのであり、そこで私たちの知る一般常識(公理系など)がその未知の世界でも通用するものなのか、(究極的には)それさえ明確ではない。直観主義的に考えるのであれば、そこまで(つまり排中律以外の論理に対しても)懐疑する必要があるのではなかろうか。
しかしそれでも、私たちはこれまでの日常的世界観から導き出した論理を用いて推論するしかないのである(あるいは運を天に任せたあてずっぽうという手もあるが)。ということは直観主義は実質的に何も明らかにしていないということになろうか。
そして、ラッセルのパラドクスは無限の問題とは関係がない。
4.ラッセルのパラドクスにおける言葉のトリック
論理を形式的に扱おうとしても、言葉の意味から離れることはできない。一見形式だけを扱えるような気がしても、それが言葉や文章の意味をナンセンスにするようなものであれば、論理として破綻してしまうのである。
述語を述語づける時点で、それを日本語にしたとき既に意味をなしていないか、あるいは述語そのものの意味合いがすり替えられていたりしているのである。
また犬は集合であれ単独であれ犬であることに変わりはなく、集合そのものを犬と別物扱いする時点で、既に意味のすりかえがなされてしまっている。
・・・とにもかくにも、私は「メタ論理」というものに対し懐疑的である。