2020年3月21日土曜日

手法が同じなのに結論が全く違うのは・・・

西研著『哲学的思考 フッサール現象学の核心』(ちくま学芸文庫)についてなのだが・・・出発点というか手法においてはかなり私と共通するものがあるにもかかわらず、結論は全く異なるものになってしまっている。

みずからの体験じしんに問いかけることがもっとも根源的である(西氏、45ページ)
・・・結局、私たちは自らの経験の外には出られない。理論構築に使える情報はそれしかないのである。このあたりの見解に関しては、私もまったく同意するものだ。

そして、哲学理論の客観性というものは、

各人が各人の意識のありようをみずから確かめては報告しあうことによって、”意識一般に共通する記述”をつくりあげようとする営み(言語ゲーム)(西氏、94ページ)
・・・言語を介して、おのおの各人がその言語(による説明)を読んでそれを自らの経験として確かめる、そのプロセスにおいてはじめて”客観性”というものが見出されるのである。”言語ゲーム”という表現は誤解を招く可能性があるとは思うが、おおまかな内容に関しては、私も同意する。

なぜ近代哲学者の努力と成果がほとんど省みられなくなってしまったのか、という問いに対して、

より本質的には、近代哲学者たちの解明が必ずしも意識体験の反省的記述になっていなかったからだ(西氏、127ページ)

カント理論に対しても、

 その自然科学の普遍妥当性の基礎づけは、いかにも人工的である。直観のもつ時間・空間的形式と概念との「合成」による説明は、私たちがみずからの体験を反省しつつ「なるほどそうなっている」と確かめることができるようなものではなくなっている。それは一種の「組立図式」であり、そうかなと思えばそうも思えてくるし(怪しめばいくらでも怪しくなる)ようなものなのである。(西氏、128ページ)
・・・まさにそうである。哲学者がよく陥る罠というか、経験そのままではなく、いつのまにか”仮説モデル”(組立図式)を勝手に作り上げてそのモデルを分析してしまっているのだ。そのために、実際の私たちの経験と齟齬を来してしまっている。

哲学が一般の人に理解しがたいのは、その多くが読者自身の経験と合致しないからだと思うのだ。結局、概念どうしの関係として理解するしかない。それらの関係、それらの関係を示した「組立図式」を見出すことで”理解した”と思うかもしれない(実際、カント理論はそういう理解しかできない)。しかし、それらが現実としての経験・体験と合致しているのか・・・本当はそこが問題になるはずなのである。

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出発点となる手法に関してはとくに異論はない。しかし西研氏の理論における問題点は、

(1)「問い」そのものの問題、とくに因果の問題
(2)(カントと同じく)経験・体験を正確に説明できているか

この二つかな、と思う。哲学が学問の基礎・根拠について考えるものであるならば、「因果」の問題は避けて通れない。しかし西研氏の理論において(さらにはその他多くの哲学者たちにおいても)因果の問題がずれた形でしか扱われていないのである。

要するに「なぜ」と問うとは、どういうことなのか、因果関係の根本から問わねばならないのにもかかわらず、そこが全く抜け落ちてしまっているのである。「物理的な決定論的世界」(西研氏、134ページ)について議論する前に、因果関係とは何か、そこを究極まで突き詰める必要があるのだ。そこをほったらかしにして、「なぜ」と問い続けたところで、「基礎づけ」「根拠づけ」がなされたことにはならないのではなかろうか。
(因果関係について突き詰めていないから、志向性という因果的仮説を”疑いえないもの”として取り違えてしまうのである)

生の意味と価値をなぜ人は求めるのか(西氏、39ページ)
・・・哲学として考えるのであれば、まずは「なぜ」というものの”正体”を(体験から)明らかにする必要があるのだ。そして、上記(2)に関連するのだが、「意味」とは何か、「価値」とは何か、そこを問う必要がある。さらに言えば「動機」とは何か、「意志」とは何か・・・それらは「言葉」としてはある。しかし私たちは何をもって「意味」と呼んでいるのか、「動機」「意志」と言うものの、「動機そのもの」「意志そのもの」は経験・体験として実際に現れているのか、さらに根本から問う必要があるのだ。

他にも「コギト」というものが具体的体験・経験として実際に現れているだろうか? そんなものどこにあるのだろうか?
「我」について疑いえないというのであれば、「他者」も同様に疑いえないのではなかろうか? 「我」という経験はどこにも見いだせない。しかし「他者」はそこに見えている。むしろ「他者」の方がより確実なものではないのか?・・・と主張することさえできるのだ。

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主観の哲学は、何かの存在を客観的に証明しようとするのではなく、何かの存在の確信の成立の仕方を問うものなのである(デカルトはまだ「証明」しようとしいるが、ヒュームになると「確信成立」のみを自覚的に問題にするようになる)。(西氏、96ページ)
・・・ヒュームからさらに”因果的”理解を加えようとするのは、哲学的考察としては適切ではないと思う(進歩というより後退)。「構造」とは何か(これも因果的関係づけにほかならない)、「仕組み」とは何か、「作用」とは何か、まずはそこから明らかにすべきであって、「成立の仕方」という問いの答えは恣意的な仮説にならざるをえないのである。

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西研氏が経験・体験を正確に記述できていない箇所は、他にもたくさんあるが、後日、具体的に説明していこうと思う。

例えば・・・「完全な三角形はいわば頭のなかにしか存在しないものだ」(西氏、93ページ)と言うが、そもそも”完全な三角形”を頭のなかに描くことなどできるのだろうか?


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