2020年3月15日日曜日

言葉と知覚・印象の関係と、因果関係との混同

 一ノ瀬氏は、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』(中央公論社)に掲載されている、「原因と結果と自由と」において、

「Rさんは日本人女性である」という理解と、「Rさんは日本人である」という理解との間の関係のように、原因結果ではなく、単に論理的な関係でも、観念についての「私たちの事実」としては、「近接」、「先行」、「恒常的な相伴(恒常的連接)」を満たしていまい、ヒュームの枠組みだと原因結果になってしまうのではないか(一ノ瀬氏「原因と結果と自由と」、19ページ)

・・・と説明されているが、これは明らかに言葉の意味の問題と因果関係の問題との混同である。そこに印象として現れている人が「Rさん」であり「日本人」であり「女性」なのである。これはあくまで言葉と印象・観念の関係の問題であり、「近接」「先行」「恒常的な相伴(恒常的連接)」とは全く別の関係であると言える。さらに言えば「論理的な関係」でさえも結局は言葉と印象・観念の関係へ還元される、ということでもある。
 「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」においても、

「恒常的連接」というのは、その意義からして、「タイプ」の概念がなければ成立しない。そして、「タイプ」とは抽象観念にほかならない。しかるに、ヒュームの考えでは、抽象観念とは、類似の対象を同一の名前で呼ぶという習慣が確立することによって、名前を聞くとそれらの対象のどれか特定の観念が想像によって想われてしまう、という存立構造をもつものであった(T20)。すぐに気づくように、こうした抽象観念の存立構造とは、「心の決定」による因果関係以外の何ものでもないだろう。つまり、名前と特定の観念との間に、「原因」の第二の定義に基づく因果関係が現れているのである。(一ノ瀬氏、247ページ)

・・・これも言葉と印象・観念の関係と、因果関係とを混同している見解である。言葉と印象・観念との関係は、具体的には、

ある事象⇒A(言葉)と呼んだ
別の事象⇒Aと呼んだ
さらに別の事象⇒Aと呼んだ

・・・という具体的経験の積み重ねである。これらはあくまで事象間の「同一性」「類似性」の問題である。それぞれの事象は全く同じかもしれないし違うかもしれない。同じものを何度も見てAであると確かめる場合もあろうし、様々なものを見て、これもAだ、あれもAだと思う場合もあろう。
 「三角形」として思い浮かぶ図形が同じ場合もあろうし、違う場合もある。ある図形を「三角形だ」と思ったが、三辺の長さが全く違うものも「三角形」だと思うのである。
 因果関係における恒常的連接はこういった同一性が成立した上で認められうるものとなる。

同一性の問題については『人間本性論』(木曾好能訳・法政大学出版局)第四部第六節「人格の同一性について」の前半部分(285~293ページ)で詳細に論じられている。ただ、これらはあくまで後付けの説明であり、まずは「同じ」と思った経験があり、その“理由”は事後的因果的説明であるにすぎない。

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