『善の研究』第二編まとめました。
初心者向けではないので・・・そこはすみません。
最後の章では時間論や自己同一性の問題も取り扱っています。
「統一的或る者」批判 ~西田幾多郎著『善の研究』第二編 実在の分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report26.pdf
・・・『善の研究』第二編 実在の分析です。純粋経験論の立場から言えば、「力」があって事象・現象の推移があるのではなく、現象・事象の推移がまずあって、そこから「力」というものが仮想されているということなのです。「力」を実体化しそれを経験の根拠づけに用いてはならない、「力其物」(さらには「作用其物」「意志其物」)というものは純粋経験として現れることがないからです。しかし西田は「統一的或る者」「統一力」という仮想概念により純粋経験を説明しようとしています。
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<目次>
1.知識と情意とは“統一すべき”なのか?
2.「心其物」「意識其物」は純粋経験ではない
3.思惟が“独立自全の活動”であるということ=「思惟の根柢にも常に統一的或
る者がある」ということにはならない
4.問題は因果律をアプリオリと捉えること
5.「無限」が純粋経験として現れているだろうか?
6.「情意」とは何か?
7.「同一の形式」は虚構、そもそも「意志其物」が純粋経験ではない
8.「統一的或る者」は西田自身が言う「力とか物とかいうのは説明のために設
けられた仮定」そのもの
9.経験の推移や関係づけを説明するのに「一の意識」を前提とする必要はない
10.「超越する不変的或る者」を前提しなくても思惟のプロセスとしての純粋
経験はただひたすら現れてくる
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純粋経験の体系性 (佐野之人著)
日本哲学会、第78回大会(2019年首都大学東京)一般研究発表
・・・を読んでみたが、仮にこういった研究者と出会って話をしてみても果たして会話が成立するだろうか・・・? 文章とそれに対応する経験との関係から導き出される論理、それを無視した上で宗教的感覚を求めるというのであれば。。。そこにもう議論の余地はなさそうだ。
純粋経験論とは、読者がそれぞれの経験を確かめながら検証していくものである。それは自らの宗教的関心の深さに関わりなく、現れてくる経験なのである。
我々が『善の研究』を読むとき、我々はすでに、そうしてつねに純粋経験のうちにあるのであるが、そのことはさしあたり分からない。(佐野氏:著者)・・・ということはありえない。その読んでいる事実、見えている文字、そこで浮かんでくるなにがしかの感覚やら心像やら言葉やら、そういったことすべてが純粋経験なのである。ただそれだけのことだ。それがありのままの事実でない、というのであれば、いったい何がありのままなのであろう? それが反省であろうとなかろうと、経験として現れたものは現れたものなのである。そしてそれを言語表現した、それさえもありのままの事実である。(西田は言語表現も純粋経験であることを見逃している)
佐野氏の言われる「体系性」とは(西田の言う「体系」もそうであるが)、結局のところ、純粋経験ではなく、構成された仮想概念なのだと思う。具体的経験の事実ではなく、恣意的に構成された概念モデルを分析して導かれているのではないかと思われる。(哲学者がよく陥る落とし穴である。根本的経験論のジェイムズでさえそうであった。)
純粋経験論は、各々が言語表現と自らの経験との関連づけを確かめながら、著作(たとえば『善の研究』)の正しさを検証していく。読まれながら個人個人により検証されることで初めてその客観性というものが見出されるのである。(哲学はそうしていくしかない)
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