2020年2月16日日曜日

所与性と他者性との混同(つづき)

『人間知性研究』(ヒューム著、斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局)に掲載されている、一ノ瀬氏の解説、「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」(226ページ~)の分析・・・

(※ヒュームからの引用は、『人間本性論』ヒューム著、木曾好能訳、法政大学出版局)

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ヒュームが、「教育」における繰り返しや刷り込みによって一定の信念を得ることを因果推論とほぼ同一視している点からも強く確証される。ヒュームはいう、「教育というのは人為的原因であって自然的原因ではない……けれども、それは実際は、習慣と繰り返しという、原因から結果に向かうわれわれの推論の場合とほとんど同じ基礎の上に構築されているのである」(T117)。教育によって得られた知識が、他者によって与えられたという、他律的な側面をもつことは否定しようがない。(一ノ瀬氏、250ページ)
・・・ヒュームは教育による繰り返しが、日常的な因果把握と同じような効果をもちうることを説明したのであって、それは因果把握に他者性が必須であるということではない。他者性とは、あくまで因果関係の客観性において問題になることなのである。
 (先の記事で説明したように)文章で書く上では、自己・他者というものを前提としている。「私の」経験というふうに説明せざるをえない。文章で記すということは、他者の見解を確かめ信念の客観性を確かめるプロセスでもあるからだ。しかし、具体的経験としては、それはあくまでただの経験、それが「私」のものかどうかは、あくまで後付けの説明でしかないのである。

ヒューム因果論の深底部には、因果性が成立する場は他者へと絶え間なく反転していく、というモチーフが脈々と息づいている。しかし、この議論の構造から明らかなように、こうした考え方は強力に自己否定的である。少なくとも、自己否定という暗闇にきわどく接しているといえる。したがって、ヒュームの因果論は、自己破滅の危機を胚胎した、危うい綱渡りめいた、暗示的なものにならざるをえない。本質的にそうならざるをえないのである。(一ノ瀬氏ページ)
・・・これは既に述べたように、他者性と所与性とを取り違えている上での見解であると言える。
 印象・観念という経験(「経験」とは何かということに関してヒュームにも誤解があるのだが、それについてはこちら)、そして因果性を認めていくプロセス・・・それらを説明するのに「自分自身」をあらかじめ措定しておく必要がない、あくまで経験が推移していくプロセスとして記せばよい、そういうことなのである。(ただし「心の決定」はヒューム自身のブレであるが)
 経験はただ現れてくるもの、それが自己から出たものなのか他者から出たものなのか、ということなど、事後的な解釈でしかない。個別の経験はそんなことなど何ら示してはいないのである。
 経験論とは、一ノ瀬氏の言われるような”自己破滅”というものなどとは縁のないものなのだ。
〔ほかの人はどうであれ〕私に関する限り、私が「自己」(myself)と呼ぶのにもっとも深く分け入るとき、私が見つけるものは、常に、熱や冷、明や暗、愛や憎、苦や快など、あれやこれやの個々の知覚である。私は、いかなるときにも、知覚なしに自己を捉えることが、けっしてできず、また、知覚以外のものを観察することも、けっしてできない。(ヒューム、286ページ)
・・・これは”自己破滅”なのではなく、”事実”なのだ。ヒュームだけでなく、私においてもそうである。

(後に続く・・・)


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