2020年2月5日水曜日

違和感だらけだ・・・

ヒューム研究学会
第29回例会(2018/11/19 update)
https://sites.google.com/site/humeforumjapan/archives
合評会資料
澤田和範「萬屋博喜氏の『ヒューム—因果と自然』の批判的検討」
https://drive.google.com/file/d/1X2nXtExJvBV4---iJl6ZaYlGqOg3Y2Qz/view

・・・などに目をとおしていたのだが、

普通に考えてみて、因果推論の正当性は、その推論が実際に当たるかどうかで決まるのでは? と思うのだが・・・

空を具合を見て「これから雨が降るだろう」と考えて、それが正当かどうかは、雨が実際に降るかで決まる。事実で検証されない推論は究極的には正当化しようがないものである。

ただ、過去において同じような場合には同じような結果が生じるという、経験則を適用できそうな、似通った状況であれば、正しいだろう、と目星をつけることはできる。
しかし究極的には正当化されてはいない。それこそprobabilityの世界である。

そして、因果推論した「理由」というとき、
(1)なぜ因果推論できたのか
(2)因果推論を正しいと思う根拠
(3)因果推論が実際に正しかったと判断する根拠

これらを混同してはならない。ヒュームも混同しているように思える。(1)は答えようがない(どうとでも言える)。因果関係とは何かという問題を因果関係で説明するのは、それこそ無限後退、ナンセンスの極みである。(しかしヒューム自身このあたり混同が見られる)

恒常的相伴が問題となるのは、まさに(2)の場合なのである。そして既に述べたように、因果推論の正当性は、その推論が実証されて初めてもたらされるものである。(3)に恒常的相伴は関係ない。当たればよいのである。しかしその因果推論が普遍的に適用できるという保証は与えられない(信じるのは勝手だが)。

・・・もう少しじっくり読んで、そのうち分析してみたい。

******************

次に「意味」についてであるが、

『人性論』の抽象観念の一文を引用した上で、澤田氏は次のように述べられている。

もし名辞が個別観念に「意味」を与えると言うヒュームが、ここで語や文の、あるいは命題の意味について語っているのだと言うなら、その人は意味の理論を何か根本的に誤解しているのだと思われる。(澤田氏、7ページ)
・・・澤田氏の見解に反して、その文は、まさにヒュームが「意味」について述べた部分なのである。言葉の意味というものは言葉がなければ現れようもない。あたり前の話である。言葉の意味は言葉だけで説明できるものでも当然ない。言葉と経験(観念や印象)との繋がりによって初めて生まれるものである(ヒュームは観念についてしか言及していないが)
根本的な誤解をされているのは澤田氏であるように思われる。(萬屋氏の見解にも問題はあるが)

ヒュームが言っていることは、抽象概念とは言うものの、実際に「意味」として現れるものは個別的観念でしかない、ということなのである。これは論理ではない。自らの経験としてどうなっているのか確かめてみるものなのである。

実際(おおまかにいえば)ヒュームの言うとおりになっていると思う。

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