ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
・・・で既に指摘しているのであるが、ヒュームも(抽象観念のところ以外では)言葉の位置づけを全く無視して話をしてしまっている。そのために論理が混乱してしまっているのだが、言葉をきちんと具体的な経験としてその位置づけを認めてやりさえすれば、複雑観念の問題にしても、非常にすっきりした形で事実をきちんと説明できてしまうのだ。
以下の一ノ瀬氏の説明も、言葉の位置づけを無視しているために、よくよく分析してみればおかしな話になってしまっているのだ。
因果の基本性は、いま引いたヒュームの言にあるように、あくまで「事実の問題」つまりは経験的知識に関してであって、それと区別された「観念の関係」(Relationship of Ideas)つまりは論理的知識にまでは及ばないのではないか、という疑問が提出されるかもしれない、しかしそれは違う。というのも、ヒュームは、『人間本性論』第一巻第四部第一節「理性に関する懐疑論について」において、観念の関係の典型例である算術の計算などに照らしながら、観念の関係も真には事実の問題でしかないと論じているからである。(一ノ瀬氏、236ページ)・・・ヒューム自身に混同が見られるので一ノ瀬氏が誤解されるのも仕方ない部分もあるのだが・・・そもそも「観念」とはいったい何であろうか?
「思考や推論の際の勢いのないこれらの心像」(土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』12ページ)あるいは「思考や推論に現れる、それら印象の生気のない像」(木曾氏訳『人間本性論』13ページ)のことである。英語で言えばfaint images、しかし実際のところfaintであろうがなかろうがimageはimage、(「心」を前提としているような誤解を生んでしまう可能性はあるのだが)心像(あるいは像)のことなのである。
そこで問いたいのだが、心像と心像との関係が論理なのであろうか?
話がおかしくなるのは、言葉が無視されているからである。因果関係において、事象(印象・観念)との関係が構築される前に、まずは印象・観念と言葉(名辞)との関係が構築されている必要がある。まずはそれら印象・観念が何らかの言葉で呼ばれている、その事実を前提とした上で、観念と観念の関係について説明する必要があるのだ。
その前提のもとで話を進めると・・・観念と観念との関係は別に事実関係である必要はない。おとぎ話でも良いのだ。想像における(事実としてはありえない)因果関係でも全く良いのである。
そして、ここで一ノ瀬氏が言われる「事実」とはいったい何なのであろうか? このあたり一ノ瀬氏は何か誤解している部分があるのかもしれない(もう少し検証してみる)。
因果関係の事実関係としての必然性は、究極的には印象に辿れるという信念に基づいている(そして恒常的相伴が必然性、ということになる)。ヒュームは観念は印象の写しであると言っているが、それはあくまで”単純観念”に限定されているはずである(しかも常に写しであると断言できるのか?)。
そのあたりについては、因果推論するのに必然性あるいは恒常的相伴は必要ないの記事で説明している。
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