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しかるに、では、ヒュームはどのような観点から固有の因果論へと至ったのだろうか。ヒューム因果論を促した最初のモチーフは何だったのだろうか?(一ノ瀬氏、237ページ)・・・私には、この問いが非常に不自然に感じられる。ヒュームは『人間本性論』の序章で次のように述べている。(以下、木曾好能訳、法政大学出版局より引用)
人間の学が他の諸学の唯一の堅固な基礎を成すように、人間の学そのものに与えうる唯一の堅固な基礎は、経験と観察(experience and observation)に置かれねばならない。(ヒューム、7~8ページ)
われわれに可能なもっとも一般的でもっとも完成された諸原理に対しては、それらが事実であることをわれわれが経験すること以外にそれらの原理の根拠を示し得ないということを、知るからなのである。この、或ることが事実であることの経験こそ、ただの普通人にとってはそのことの根拠にほかならず、また、どれほど特殊でどれほど異常な現象に対しても、あらかじめ調べる必要もなくすでに見出されている根拠なのである。(ヒューム、9ページ)
いかなる学いかなる技術も、経験を越えて進むことはできず、この権威(経験)に基礎をもたないような原理を確立することはできないのである。(ヒューム、9ページ)
・・・ヒュームは経験に基礎を置く、という手法を採用すると決めているのである。つまりヒュームの因果論とは、一般的に私たちが因果関係があると認めるとき、そこにどのような経験が実際に具体的に現れているのか、ということから説明される、ということなのである。
もちろん(デザイン論証のような)仮説的イメージがあった可能性は否定できない。しかしそれは、私たちの具体的経験によって根拠づけられるのかどうか確かめられるべきものであって、デザイン論証というものがヒューム因果論の基礎のように扱われてはならないのである。
先の一ノ瀬氏の問いに戻るが、「どのような観点から固有の因果論へと至ったのだろうか」と問うこと自体がおかしな話なのだ。ヒュームは自らの経験を観察した上で因果論を構築したのである。あえて「観点」というのであれば、それは経験論的観点である。繰り返すが、それはデザイン論証のようなものにより根拠づけられるのではなく、具体的経験により根拠づけられるものなのである。
そしてそのヒューム因果論が“ヒューム固有”のものなのか、それは一ノ瀬氏ご自身、そして当然私もであるが、一人ひとりが自らの経験を観察した上で確かめるものなのである。そうすれば、ある程度のズレはあるにせよ、ある程度共通したものが見いだせるのではなかろうか。
一ノ瀬氏は、経験論という手法そのものを無視した上でヒュームを理解しようとされているように思えてならないのだ。そしてその姿勢は他の現代のヒューム研究者たちにも共通しているように思えるのだが・・・
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