2020年2月11日火曜日

所与性と他者性との混同

『人間知性研究』(ヒューム著、斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局)に掲載されている、一ノ瀬氏の解説、「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」(226ページ~)を少しづつ読み進めている。

「他者の視点」(一ノ瀬氏、248ページ)とあるが・・・一ノ瀬氏は経験の所与性と他者性とを混同している部分がある。

経験はただ現れるもの、それを表現として”強要されたもの”(一ノ瀬氏、249ページ)と説明することもありうる。その所与性を他者性と取り違えているようなのだ。

もちろん、経験論の哲学を文章として綴るとき、他者の視点を考慮しているかといえば、(私の場合は)もちろんそうである。これまでの私の経験から、自らの日常的知覚経験が他者とそうずれてはいまいと思いながら書いているのである。

しかし、哲学としてそれを言語として綴る場合、それはあくまで私自身の経験として述べているだけであって、その哲学の”客観性”とは、究極的には他者の同意(の言葉)というものがあって確認されるのである。そしてその客観性も、結局は自らの経験として現れるものである。

私としては、結局は他者も同意せざるをえないであろうと確信した上で文章を綴っている。ヒュームも同様であろうと思う。

そういう意味で、文章を書くときは常にそれを読む他者というものが想定されているのである。

そういう客観性における他者の視点の問題と、自らの具体的経験がいやおうなしに(理屈などおかまいなしに)ただ現れるという”所与性”とを混同してはならないのである。

所与性を因果的に理解しようとしてしまう・・・ということは、要するに因果関係をエポケーできていない、ということなのである。

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