純粋経験というのは、
経験に純粋なものと純粋ではないもとがあるとか、そういった区分・分類のことではなくて(西田の『善の研究』での説明が混乱しているためそう受け取ってしまう人が多い)、
経験を”純粋なまま”(まさにpureなままに)受け取ってみよう、ということなのです。
経験を、(たとえば観察の理論負荷性とか、アスペクトがどうとかとか)いろんな理屈をいったんほったらかしておいて、「思考」とか「判断」とか「意志」とか、そういった様々な生活の局面において、実際に具体的に現れている経験は何なのかを捉えていくことなのです。
判断したら純粋経験ではないとか、言語化したら純粋経験ではないとか、そういう人がいたら、それは純粋経験について全く勘違いしているのです(こういう勘違いもよく見られます)。
そうではなく、判断したことが純粋経験、言語化したことが純粋経験なのです。そしてその時、例えば判断という生活の局面において、具体的経験としていったい何が現れてきているのか、それを説明することが純粋経験論なのだと言えます。
純粋経験は言語化できない、という人もいそうですが、それも勘違いです。何らかの感覚を経験して、それを言語化した、それが純粋経験です。経験のすべてを言語で言い尽くせないということと、経験を言語で説明した事実があるということを混同しているのだと言えます。
純粋経験論とは、具体的経験の事実そのものから哲学を構築する試みのことです。哲学史の流れの中に位置づけるとすれば、ヒューム・ジェイムズ・(最初期の)西田幾多郎の系列、そして彼らの「経験論」を究極まで徹底させようとするものです。 ホームページはこちら⇒ http://miya.aki.gs/mblog/
2020年2月2日日曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である
新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...
-
「純粋経験の世界」まだ検証中です。いろいろつっこみたい所はあるのだけど、ジェイムズの説明内容をまだきちんとイメージできていない部分もあるので、じっくり取り組んでいきます。 今日、岩波文庫の『プラグマティズム』を買いました。 ジェイムズは「根本的経験論」とプラグマティズムとは論理的...
-
今、ジェイムズ著『純粋経験の哲学』(伊藤邦武編訳、岩波書店)の、「純粋経験の世界」を原文と照らし合わせながら読んでいるのだけれど、 「実在」という言葉は大仰な感じがするけど、なんだ結局「リアルreal」ってことじゃないか・・・ (ヒューム『人性論』の”蓋然性”も、日本語では何...
-
先の記事 で、『プラグマティズム』において、ジェイムズは「根本的経験論」とプラグマティズムとは論理的な関連がない、と書いていると説明したが、ジェイムズの考え方には変化もあって、積極的に関連づけようともしていたらしい。 八五郎屋の書庫 http://www5b.biglobe.ne...
0 件のコメント:
コメントを投稿