2020年2月2日日曜日

純粋経験とは

純粋経験というのは、
経験に純粋なものと純粋ではないもとがあるとか、そういった区分・分類のことではなくて(西田の『善の研究』での説明が混乱しているためそう受け取ってしまう人が多い)、
経験を”純粋なまま”(まさにpureなままに)受け取ってみよう、ということなのです。

経験を、(たとえば観察の理論負荷性とか、アスペクトがどうとかとか)いろんな理屈をいったんほったらかしておいて、「思考」とか「判断」とか「意志」とか、そういった様々な生活の局面において、実際に具体的に現れている経験は何なのかを捉えていくことなのです。

判断したら純粋経験ではないとか、言語化したら純粋経験ではないとか、そういう人がいたら、それは純粋経験について全く勘違いしているのです(こういう勘違いもよく見られます)。

そうではなく、判断したことが純粋経験、言語化したことが純粋経験なのです。そしてその時、例えば判断という生活の局面において、具体的経験としていったい何が現れてきているのか、それを説明することが純粋経験論なのだと言えます。

純粋経験は言語化できない、という人もいそうですが、それも勘違いです。何らかの感覚を経験して、それを言語化した、それが純粋経験です。経験のすべてを言語で言い尽くせないということと、経験を言語で説明した事実があるということを混同しているのだと言えます。



0 件のコメント:

コメントを投稿

実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である

新しいレポート書きました。 実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf 本稿は、拙著、 条件文「AならばB」は命題ではない? ~ 論理学における条件法...