分析に、余計な論理学的論理が入り込んだり、〇〇主義とかが入り込んだりして、論点がどんどんずらされている印象だ。
ヒュームを読むとき、論理学的論理を前提にしてはならない。自分の経験としてどうなっているのかを確かめる必要があるのだ。
私が常日頃感じていることであるが・・・哲学者は経験論がどうも苦手のような気がする。
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『人間知性研究』(ヒューム著、斎藤繁雄・一ノ瀬正樹訳、法政大学出版局)に掲載されている、一ノ瀬氏の解説、「ヒューム因果論の源泉―他者への絶え間なき反転」(226ページ~)も読んでいるのだが、ヒュームを読むからには言語論的転回の影響をすべて取り去った上で、とにかく経験そのものを追っていく必要があると思う。
言語使用の事実についてのこうした認識を基盤としてどうしても確保したいならば、「基礎づけ」という作業さえもが再びよみがえるかもしれない。確かに、対象に関する認識ではなく、言語使用に関する認識へという議論場面のシフトはあるにせよ、そしてそのシフトに伴う重大な変容は間違いなくあるにせよ、全体としての問題の構造は以前とまったく同じままなのである。(一ノ瀬氏、232ページ)・・・この見解も私的言語批判を引きずっているような印象だ。(ただ、私がここで指摘した論点に通じる部分もあるが)
一ノ瀬氏もそうであるが、現代におけるヒューム研究は「経験論」という手法を無視した上で、よくわからない論理による分析がなされているような気がしてならないのである。分析哲学やら論理学やらをいったん捨てた上で自らの経験から構築していくのが経験論である。なんだかヒュームを現代的な分析哲学のコンテクストの中に位置づけようとする目論見を感じるのだ。
自らの経験を哲学の材料にしてはならない、そういった暗黙の了解があるような気がするのである。そもそも「客観性」というものでさえ、各々の経験の積み重ねとして見いだされるものなのである。客観性を前提にしながら哲学を構築するのは不可能である(パラドクスに陥るだけ)。そうではなく、自らの経験をもとに、「客観性」があると思われる状況とはいかなるものなのか、そこを明らかにする必要があるのだ。客観性というものも結局は経験によりもたらされるものなのである。
すべては経験、知識も経験として現れるし(経験としてしか現れない)、思惟や意志と呼ばれるものも具体的経験として現れるものなのである(思惟そのもの、思念そのもの、意志そのものの経験はどこを探してもないのだが)。
もちろん私は、「心のなかの観念」とか心理的な基礎づけというようなかつての道具立てを再び用いるべきだ、といっているのではない。(一ノ瀬氏、232ページ)・・・これも私たちの具体的経験を基礎づけに使うべきではない、という方向に向かってしまっては話にならない。
実際の科学の現場ではどうだろうか? 研究者自身の観察に基づいて理論が構築されているのである。実験も実験者自身の観察があって成り立っている。
哲学理論と、既に(科学として)具体的に遂行されている事実(ここで誤解なきように・・・あくまで科学理論構築のプロセスという事実のことであり科学理論の正しさのことを言っているのではない)、その間に齟齬が生じたとき、どちらが「正しい」のか・・・それは当然事実の方である。事実と齟齬を来している哲学理論は、やはり「間違って」いるものなのだ。
哲学はその「事実」をおかしな理屈で歪めようとして、結局パラドックスに陥っている。パラドキシカル云々言う前に、哲学者は「パラドクス・矛盾とは何か」をきちんと説明せねばならないのである。(そしてそのヒントはヒュームの著作の中にある)
(ここ数日、ちょっとづつ読んでいるルーマンの『自己言及性について』土方透/大澤善信訳、ちくま学芸文庫、を連想しながら・・・)
さらに言えば、「心」があってその中に「観念」が現れるのではない。まずは「観念」(心像)があって、そこから因果的に「心」というものが想定されているのである(しかし実際には「心そのもの」という具体的経験は終ぞ現れることはないのだが)。
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