NHKで『善の研究』の説明をしていて、そこでは言葉でとらえてしまったら、それは純粋経験ではない、というような説明をされていた。
純粋経験においては、そういう見方をされる人たちも多いようだ。
これでは純粋経験と物自体とが混同されてしまう。物自体は感知できるかできないか、というような議論に陥ってしまう。(修行すれば感じれるとかそういう議論になりかねない)
また、それでは思惟・意志・知的直観も純粋経験である、という説明と齟齬を来してしまうのである。(それを無理やり統合しようとするから変な詭弁・屁理屈へ陥ってしまう)
経験に純粋経験であるものとそうでないものとの区分があるわけではないことは、以下の記事で説明した。経験とはすべて純粋経験なのである。西田自身、そうであると言ったりそれとは違う説明をしたり、まったくもってふらふらしているのである。
https://keikenron.blogspot.com/2020/02/blog-post.html
西田自身、正確に理解できていなかったように思われるのだ。そのため西田自身の説明が非常にあいまいで、未自覚、不徹底であったため、あたかも純粋経験が物自体であるように考えられてしまうのだ。
実際、以下の論文を見るかぎり、西田自身が純粋経験と物自体とを混同していた節がある。
木村美子著
西田幾多郎の場所論とカントの「物自体」--西田の『反省的判断の対象界』を手がかりにして
立命館文學 (618), 254-241, 2010-10
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/618/618PDF/kimura.pdf
・・・まだ少ししか読んでいないが、『善の研究』以降において、だんだんと従来の西洋哲学に取り込まれてしまい(ヒュームやジェイムズは除く)、本来カントとは相容れるはずのない純粋経験論とおかしな融合をしてしまったのではなかろうか。
惜しむらくは、京都学派の中に純粋経験を理解できるような人たちが皆無だったことだ。
純粋経験論とは、具体的経験の事実そのものから哲学を構築する試みのことです。哲学史の流れの中に位置づけるとすれば、ヒューム・ジェイムズ・(最初期の)西田幾多郎の系列、そして彼らの「経験論」を究極まで徹底させようとするものです。 ホームページはこちら⇒ http://miya.aki.gs/mblog/
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