西田幾多郎の場所論とカントの「物自体」--西田の『反省的判断の対象界』を手がかりにして
立命館文學 (618), 254-241, 2010-10
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/618/618PDF/kimura.pdf
・・・分析の続き。
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「カントが形而上学として排斥したのは、我々の経験界を構成する範疇を知的所与なくして超経験界に押し進めることであった」(3-496)。そこでカントにおいては経験界における「所与の範疇」(Kategorie der Gegebenheit)は知覚に限定され、思惟と知覚の両作用の統一によって自然界が成立するのであるが、しかし西田の考えによれば、所与の範疇は知覚のみに限られず、作用の意識としては意志の意識も知覚の意識と同様、直接の所与である。それは知覚より一層具体的な所与である。「同様に直接的、ここが重要である。そうしてここのところが、カントの立場をもっと大きく開き広めようとしたところである」と西谷は指摘する。(木村氏、249ページ)・・・これが純粋経験というもの、経験というものは”所与”として、ただ現れるものなのである。しかし・・・
西田は次のように述べている。「意識とはどこ迄も直接でなければならぬ、何らかの意味において対象化せられたものは意識ではない。心理学的意識の如きは意識せられたものに過ぎない」(3-497)。「直接」とは、直接経験のことであり、自己がそこで成り立つ最も根源的なところである。(木村氏、249ページ)・・・ここで見逃されていることがある。それは上記の”対象化”それこそが”思惟”である、ということなのである。思惟が直接的であるということは、対象化したという事実、それこそが直接的な”所与”である、ということなのだ。
科学的な実験、観察も具体的・直接的な経験であり、科学理論といえども、それが何かと問われれば、やはり具体的事象と事象の関係とでしか表現しようのないものなのである。
もっとも当時の”心理学”がどこまで”科学的”であったかどうか(あるいは科学的手法に基づいていたかどうか)は疑わしいものであるのだが・・・
直接的な経験としての「感覚」がある。一方、”背後”にあるという場合、それは既に直接的ではない。むしろそれこそが西田自身の言う「意識せられたもの」なのではなかろうか?
つまり西田の言う「実在的統一力の発言として自ら働く」(木村氏、249ページ)「意志の働き」とは直接的経験ではなく、西田自身の言う”思慮分別”の産物(要するに仮説的概念)ということなのだ。
意志というものは、西田自身が説明しているように、
意志といえば何か特別なる力がある様に思われて居るが、その実は一の心像より他の心像に移る推移の経験にすぎない、或る事を意志するというのは即ちこれに注意を向けることである。この事は最も明にいわゆる無意的行為の如き者において見ることができる、前にいった知覚の連続のような場合でも、注意の推移と意志の進行とが全く一致するのである。 (西田幾多郎『善の研究』岩波 文庫 、41~42 ページ)・・・「意志」というものを示そうとしても、結局は「一の心像より他の心像に移る推移の経験」とか「或る事を意志するというのは即ちこれに注意を向けること」としか説明しようがないのである。「意志」という「特別なる力」(西田『善の研究』41ページより)というものを見出すこともできないのだ。(それなのに統一力とかいう直接的経験でないものを持ち出そうとするのは西田自身の誤りと言う他はない)
そもそも所与に自由もなにもない。また「意志そのもの」は直接的経験として現れない。あるかどうかわからないものに自由かどうかとか判断のしようもないのである。
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