西田幾多郎の場所論とカントの「物自体」--西田の『反省的判断の対象界』を手がかりにして
立命館文學 (618), 254-241, 2010-10
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/618/618PDF/kimura.pdf
・・・分析の続き(一応これで終わりです)。
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西田の理論には、先に~ありきがありすぎて、その根拠が見当たらない(直接的経験、純粋経験として現れていない)ものが多すぎるのである。
芸術・道徳・宗教⇒歴史的世界⇒自然界、というふうに順番に目的付けがされている(木村氏、247ページ)という根拠もどこにもない。西田自身の個人的嗜好を一般化されても・・・という感じである。
また普遍(一般)・特殊、主語・述語に関する議論(253ページ)においても、「一般者」というものが、直接的経験として現れているのかと言えば・・・そんなものどこにもない。このあたり西田はヒュームの因果論を中途半端に引用するだけで、ヒュームの抽象観念論を厳密に検証せずすっとばしてしまっている。
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また、西田は因果律をエポケーできていない。
『直接に与へられるもの』の冒頭は以下のようなものである。
(早稲田大学の二―ルス・グュルベルク・ホームページ内、
http://www.f.waseda.jp/guelberg/publikat/unmgegj2.htm
からの引用)
直接に与へられたものとは如何なるものを云ふのであるか。我々は此問題を論ずるに当つて、先づその意味を明にせねばならぬ。既に与へられると云へば、何物かに対して与へられるといふことでなければならぬ。こゝに与へられるといふのは、我に対して与へられると云ふ意味である。・・・”所与”とはただただ現れているもの、それは「誰に」とか「どこに」とかそういったものを前提はしていない。西田は「それを受け取る者があるから経験を受け取ることができる」という因果的理解から離れられないでいるのである。
西田は『善の研究』において「統一的或る者」というものを”直覚すべき者”(西田幾多郎『善の研究』岩波文庫 、61ページ)として前提してしまっているが、果たしてその根拠などどこにあるのだろうか?
西田は「統一的或る者」として次のように説明している。
しかるに一つの物が働くというのは必ず他の物に対して働くのである、而してこれには必ずこの二つの物を結合して互いに相働くを得しめる第三者がなくてはならぬ、例えば甲の物体の運動が乙に伝わるというには、この量物体の間に力というものがなければならぬ、また性質ということも一の性質が成立するには必ず他に対して成立するのである。例えば色が赤のみであったならば赤という色は現われ様がない、赤が現われるには赤ならざる色がなければならぬ、而して一の性質が他の性質と比較し区別せらるるには、両性質はその根柢において同一でなければならぬ、全く類を異にしその間に何らの共通なる点をもたぬ者は比較し区別することができぬ。かくの如く凡て物は対立に由って成立するというならば、その根柢には必ず統一的或る者が潜んで居るのである。(西田『善の研究』岩波文庫、91~92ページ)・・・一方、西田はヒュームを参照しながら次のように説明しているのである。
普通には因果律は直に現象の背後における固定せる物其物の存在を要求する様に考えて居るが、そは誤である。因果律の正当なる意義はヒュームのいった様に、或る現象の起るには必ずこれに先だつ一定の現象があるというまでであって、現象以上の物の要求するのではない。一現象より他の現象を生ずるというのは、一現象が現象の中に含まれて居ったのもでもなく、またどこか外に潜んで居ったのが引き出されるのでもない。(『善の研究』75ページ)・・・つまり「統一的或る者」とは西田自身が言う「力とか物とかいうのは説明のために設けられた仮定」(『善の研究』76ページ)そのものなのである。
あるものを見て「赤色だ」と思ったその事実が直接的に経験として現れているだけで、「黒色」があるから「赤色」があるとかそういった”因果関係”は果たして検証されうるのであろうか? 「赤色だ」と思う事実の前に、その”原因”として「黒色だ」とか「青色だ」と思った経験が恒常的相伴しているだろうか?
つまり、
在るものは、なにかに相対してはじめて在ると言い得るのであって、単に対を絶したものは在るということもできない。(木村氏、245ページ)・・・という見解も、全く根拠を持たないものなのである。直接的経験、所与の経験としては、ただ「そこに在る」と思った事実であって、そこに「無」というものが対であるとか、そんなことは後付けの理屈付け、思慮分別、仮説でしかないのである。
・・・本論文の分析は、とりあえずここまでにしたい。要するに「場所の論理」は純粋経験から逸脱したもの、ということなのだ。
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