ここまで、ヒューム『人性論』の第一篇「知性について」を分析してきたのだが、最後のレポート(など)で指摘したように、経験から何(原理や原因)によって関係や知識や信念やらがもたらされるのか、と問うのではなく、関係やら知識がいかに経験として現れているのかを明らかにする必要がある。
原理や原因は経験として現れては来ないが、結果として現れる知識や関係というものは具体的経験として実際に現れているものなのである。関係をとりもつ架空の「力」「作用」のようなものを想定して因果的に説明するまでもなく、具体的経験として「関係」というものが実際に現れている、それを説明すれば良いだけなのである。
・・・で、その話の続きとしては、W.ジェイムズ著・伊藤邦武編訳『純粋経験の哲学』(岩波文庫)第二章「純粋経験の世界」がまさにぴったりという感じだ。
いろいろ引用したい部分はたくさんあるのだが・・・
過度に精妙な精神は、こうした諸事実について考察し、それがいかに可能になるかを問うことによって、結局、直接の知覚的経験に代えて概念から成る多くの静的な事物をつくり上げてしまうことになる。(ジェイムズ、56~57ページ)
経験論は事物を永久に分離したままにし、合理論は絶対者や実体、その他何であれ彼らが採用しうる架空の統一の作用者によって、この空隙を埋めようとする。(ジェイムズ、57ページ)
連接と分離は、すべての出来事においてともに生じている現象であり、われわれが経験を額面どおりに受け取るならば、ひとしく実在的なものとして説明されなければならない。(ジェイムズ、57ページ)
・・・同一性であれ変化であれ、連続性であれ断絶であれ、様々な”関係”というものは、具体的経験として現れているのであれば、それを選り好みすることなく、平等に具体的経験として説明する必要があるのだ。
この問題に関しては、ジェイムズはヒュームより一歩先を進んでいることになる。
ただ、ジェイムズ自身、「抽象的な話をすることと混同しない」(ジェイムズ、55ページ)で”具体的”経験を説明できているのか・・・と言えば怪しい部分も多い。概念図・イメージ図と具体的経験とを混同してはいないだろうか?
このあたりきっちり説明しておいた方が良いだろう。
今は、これに併せてソシュールの一般言語学講義も読んでいるのだが・・・やはり言葉の「意味」に関する説明には非常に違和感を覚える。ソシュールの言語論はその出発点から問題を抱えているのではないかと思える。
そのうちきっちり批判的分析をしておきたいと思う。