2021年7月26日月曜日

具体的経験から乖離した経験主義・・・

 大森荘蔵『時は流れず』(青土社)は期待外れでがっかりしている・・・というかちょっとひどすぎる。

彼の見解が一元論の代表みたいに思われても困るし(哲学界隈ではどのように見られているのだろうか・・・?)、

中途半端な経験論とでも言おうか・・・いや、具体的経験よりも経験と乖離したおかしな論理の方が先立っている印象だ。

おそらくこの自然な道は哲学者の道ではなく普通の人間、ヒュームが「俗衆(vulgars)」と呼んだ非哲学的常識人の道であろうと思う。(大森氏、107ページ)

一言でいえば、難行苦行の哲学の道を去って、普通の人がかようなれた亘々たる易行の道に就くこと、それが他が問題を終結させる安易きわまる方法にほかならない。(大森氏、108ページ)

・・・この姿勢は、大森氏が触れられているように、ヒュームの見解と共通するものがある。実用的・実践的かどうかはかかわりなく、実生活における具体的経験がいかなるものか、検証していくものなのである(大森氏は、実用的・実践的と、実生活ということとを混同しているように見受けられる・・・30ページ付近)。私たちの具体的経験から乖離した論証を持ち出したところで、そこに何の根拠も見いだせない。

しかし大森氏の分析過程は、私たちの具体的経験から全く乖離したものでしかない。挙げればきりがないのだが・・・

実生活においても、事の最初には他者命題の意味は全くブランクであったろう。手元に所有していたのは自分を主語にする「私は……」という命題の意味だけであったろう。(大森氏、115ページ)

・・・という決めつけの根拠はどこにあるのだろうか? 事の最初とはいったい何なのか? いったい彼は何の話をしているのだろうか? 

過去が「言語的命題群」(大森氏、46ページ)という決めつけも、私たちの経験と乖離したものである。大森氏が拠り所にしているこの仮説自体が、私たちの実際の経験と相容れないものでしかない。

大森氏の時間論は、ヒュームの時間論からかなり後退していると言わざるをえない。

・・・さらなる具体的分析は、カピ哲!の方にアップしていこうと思う。



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