ヒューム自身の「観念」という言葉の使用法にかなりブレがある、「単純観念」と「複雑観念」との区分のあいまいさ、ブレ、「複雑観念」と「関係」との関係(?)やら・・・時間がかかるかもしれないが、テキストをしっかり読んでじっくりまとめていきたいと思う。
とにもかくにも、ヒューム自身が述べているように「観念」とは「心像」なのである。一方、ヒュームは言葉をときに考慮してはいるが、多くの場合は無視している。それゆえに、ヒュームが「〇〇の観念」と言うとき、そこに心像があるものとないものとがごったになってしまっているのだ。
言葉を除外する弊害は他にもある。一ノ瀬氏が指摘されているように、
「Rさんは日本人女性である」という理解と、「Rさんは日本人である」という理解との間のように、原因結果ではなく、単に論理的な関係でも、観念についての「私たちうの事実」としては、「近接」、「先行」、「恒常的な相伴(恒常的連接)」を満たしてしまい、ヒュームの枠組みだと原因結果になってしまうのではないか(一ノ瀬正樹氏「原因と結果と自由と」ヒューム著、土岐邦夫・小西嘉四郎訳『人性論』中央公論社:19ページ)・・・ということも言えてしまうのである。実際には、「Rさんは日本人女性である」「Rさんは日本人である」ともに、その言語表現が指し示す「印象」あるいは「観念(心像)」はどちらも同じものである。観念が近接・先行・恒常的相伴しているのではなく、同じ印象・観念を異なった言語で表現しただけなのだ。
一方、”もっと巧妙な形で「共通原因」が隠されている場合には、原因結果でないものを因果関係と見誤ってしまうことを排除できないのではないか”(一ノ瀬氏、19ページ)という指摘に関しては、これはヒューム理論の不備ではなく、因果関係が持つもともとの性質である。だからこそ、科学理論は次々に更新され、過去に常識だったものが間違いであったと分かったりするのである。
また、言語を除外する弊害はさらにある。快苦、情念、欲望といった事柄の分析において、実際に「観念」として現れているもの、「言語」としてしか現れていないものがある。それらの区分があいまいになってしまうのである。経験⇒言語表現、という関係を、経験⇒経験という因果関係と取り違えている箇所もあるように思える。このあたりは後日じっくり分析してみたい(『人性論』の後半部分になるので、だいぶ後の話になりそうであるが・・・)。
・・・ただ、情動から一律的に説明できるかといえば、それも疑わしいのであるが。
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ジェイムズの『純粋経験の哲学』第2章「純粋経験の世界」は経験論の指針となるような重要な記述がある。
この経験をしっかりつかむということは、それを額面通りにとって、過大視も過小視もしないということを意味する。そしてそれを額面通りにとるとは、何よりもわれわれがそれを感じるままに把握するということであり、それについて抽象的な話をすることと混同しないということである。連接的経験についての抽象的な話をするとき、われわれは二次的な概念を創案することになり、それによってその経験の示唆するところを中性化し、現実の経験が理性的に可能になるという幻想に再び舞い戻るのである。(ジェイムズ『純粋経験の哲学』55ページ)・・・ここで「関係」というものをどうとらえるか、ということなのだが・・・要するに、経験の推移やら変化やらは、実際に経験していることなのであるから、その経験をありのままに受け止めるしかない、ということなのである。具体的経験は具体的経験なのだから。
しかし、そこからさらに進んで「抽象的」な話と混同してしまっている箇所がある。例えば、52ページで説明されている「宇宙」である。
われわれは経験をまたずアプリオリに、「に隣接して」を含まずに「と共に」のみから成る宇宙を想像することが可能である。同様に、「に似て」のみから成る宇宙、「の次に」のみからなる宇宙、あるいは、作用性をもたずに「に似て」のみから成る宇宙、「のために」をもたない作用性、「わたしの」をもたない「のために」の宇宙を、それぞれ想像することが可能である。これらはそれぞれ独自に統一性をもった宇宙となるであろう。人間の経験の宇宙は、その時々の各部分にお9いて、こうした統一性のひとつであるとともに、すべての統一性の度合いを含んだものでもある。(ジェイムズ、52ページ)・・・アプリオリという表現は論外として、私たちは「宇宙」を想像するのではなく、あくまで具体的に「隣接して」いる事物、「似ている」事象、そういったものを観察・経験しているだけはないのか? 実際にそういう「宇宙」が具体的心像、具体的経験として浮かんできているのか? 直接ジェイムズに問うてみたいくらいである。
ここでジェイムズは経験を額面的にとらず抽象的な話と混同してしまっているのだ。そもそも純粋経験の「世界」とは何なのだろうか? 「世界」とは「宇宙」と一緒でやはり具体的経験として現れてはいない事柄なのである(もちろん現代社会において世界地図とか宇宙空間の映像イメージというものは経験として現れてはいるが)。
関係に「実在としての場所」(ジェイムズ、49ページ)を見出すということは、それらの関係が具体的経験として現れている事実を「額面通り」に受け取ることなのであって、そこで抽象的な用語を持ち出すことではないのだ。
まず第一に、連接と分離は、すべての出来事においてともに生じている現象であり、われわれが経験を額面通りに受けとるならば、等しく実在的なものとして説明されなければならない。(ジェイムズ、57ページ)・・・そういうことである。さらに、
第二に、もしもわれわれが連続的に連接しているものとして与えられている事物を、実際には分離したものとして扱うことを主張し、そのうえで同一が必要なときに、想定された分離を克服するための超越論的な原理を求めるというのであれば、これとは反対の操作をする用意ももっていなければならない。すなわち、われわれの単に経験されているにすぎない非連続を、より真に実在的なものとするためには、同じように非統一のための公示の原理を求めなければならない。この点で成功しないのであれば、われわれは最初の所与の連続性もそれ自身の基盤のうえに立たせておくべきである。われわれが一方に偏ったり、気分にまかせて好き勝手をする権利はないのである。(ジェイムズ、57~58ページ)・・・これは、私が
カントの恣意的な「経験観」(および「認識」について)
https://keikenron.blogspot.com/2018/12/blog-post_23.html
・・・の記事で説明したことと同じである。「変化」「差異」をありのまま受け入れるのであれば、「同一性」「不変」もありのままに受入れなければおかしいのではないか、ということである。これは連接・分離についても同様である。
ジェイムズは経験論における重要な指摘をいくつも残している。ただ、ジェイムズ自身がそれを徹底できなかった箇所がある、それを厳密に検証し、より厳密な経験論というものを構築していくのが、ここでの私の仕事である。
他にジェイムズが「抽象的な話と混同」しているものとして、「混沌」が挙げられる。
われわれの宇宙は、それが現れるとおりに捉えられるかぎり、そのだい部分が混沌としたものである。経験全体はさまざまな連結からできているが、どの単一の連結も経験すべてを貫いていない。(ジェイムズ、52~53ページ)・・・「宇宙」というものが経験のいったいどこにあるのか、それはジェイムズの抽象的イメージ図でしかないのではないか? 私たちの経験はただ経験されていること、見えていること、聞こえていること、感じられていること、それが「混沌」というのはあくまで抽象的用語を用いた事後的解釈でしかない。ただ見えたものを「リンゴだ」と思ったとき、そのどこに「混沌」があるのだろうか? 言葉で把握されたものは把握されたもの、言葉で把握されなかったものは把握されなかったもの、ただそれだけである。
直接に与えられるとおりの経験の体系全体は、それ自体としては半カオス的なものとして現れており、その内で、最初の項から多数の方向に経路が引かれ、次から次へと非常に多くの可能な経路が生じながらも、同じ終着点に辿り着くということである。(ジェイムズ、69ページ)・・・これもおかしい。具体的経験としては、ただ具体的心像やら言葉が現れているだけ、ある知覚が別の心像やら言葉を連想させていく、そのプロセスであるにすぎないのであって、そこに「半カオス」という抽象的用語の入り込む余地などないのである。
また、後日じっくり分析したいが、ジェイムズの「認識」はおかしい。「ひとつの経験が別の経験の認識主体となる」(ジェイムズ、59ページ)とはいったいどういうことなのか? 経験は主体ではない。「認識するものと認識されるものとの関係」(ジェイムズ、59ページ)の説明としては論点がずれていないか?
80ページからの「六 異なった精神による同じものへの終着」に関しては、拙著
“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である ~『純粋理性批判』序文分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf
・・・における、Ⅴ.存在は「現象としての物」から因果的に導かれる(18 ページ~)に共通する視点かなとは思う。こういった経験から導かれる一見あたりまえな説明が、まさにその答えなのではないかと思うのだ。「認識するものと認識されるものとの関係」についてはむしろこちらの理屈から説明すべきだったのでは、とさえ思える。
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