2019年1月30日水曜日

何と何の整合性なのか/「足し算」とはどういうことなのか

大厩諒著「純粋経験の統一的解釈の試み : ジェイムズ哲学の方法論的考察を通して」、『哲学』2016(67) 、日本哲学会、2016年、169~185ページ
URL:https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy/2016/67/2016_169/_pdf/-char/ja

・・・をざっと読んでみた。問題は「整合性」とはいったい何と何の整合性のことを指しているのか、ということである。

おおざっぱに言って、二通りあると言える。一つは、以下に示すジェイムズ自身の言葉、
この経験をしっかりつかむということは、それを額面通りにとって、過大視も過小視もしないということを意味する。そしてそれを額面通りにとるとは、何よりもわれわれがそれを感じるままに把握するということであり、それについて抽象的な話をすることと混同しないということである。連接的経験についての抽象的な話をするとき、われわれは二次的な概念を創案することになり、それによってその経験の示唆するところを中性化し、現実の経験が理性的に可能になるという幻想に再び舞い戻るのである。(ジェイムズ『純粋経験の哲学』55ページ)
・・・この経験を「額面通り」にとる、という指針を貫くのかどうか、もう一つは、ジェイムズ自身の見解における矛盾する説明どうしを、特定の論理を導入することによって「整合的」に説明しようと試みることである。

後者の道を取れば、前者の指針と齟齬を来してしまう。結局ジェイムズが批判しようとした超越論的な原理(ジェイムズ、58ページ)を導入せざるをえない、実質的に経験論を放棄してしまう結果となってしまうのである。

ジェイムズは、以下のように述べている。
わたしが信じるに、経験とはそのような内的二元性をもつものではない。経験が意識と内容に分離されるのは、引き算によってではなく足し算によってである―足し算とはすなわち、経験のある所与の一片に他の経験の断片の集合が加えられることによって、その一片がさまざまな仕方で、異なった二種類の用途あるいは機能を果たすようになるということである。(ジェイムズ、17ページ)
・・・ここで「足し算」とはどういうことなのであろうか? ジェイムズ自身、明確に気づいていないようなのであるが・・・結局、「存在」やら「主体(あるいは主客の分離)」という事実把握は、経験そのものを”成立”させる何がしかの想定要因によってもたらされるのではない(つまり「引き算」では見つからないということ)、そうではなく、あくまで経験と経験との事後的な関連付けによって(つまりヒューム的な因果関係構築によって)導かれるもの、経験と経験との「足し算」によって導かれるものである、ということなのである。もっとも、経験を成立させる何かを論理的に導いたつもりでも、その論理自体が経験と経験を関連づけて導かれた因果的経験則に行き着いてしまうのであるが・・・
存在の観念は、存在しているとわれわれが思いいだくものの観念とまさしく同じものである。なにかをただ反省するのと、それを存在するものとして反省するのとは少しも違わないのである。存在の観念は、なにかある対象の観念と結びつけられても、この観念になにも付け加えはしない。(ヒューム『人性論』土岐邦夫・小西嘉四郎訳、中央公論社、37ページ)
・・・とヒュームが説明しているように、個別の経験それ自体からは、いくらそれを分析しようとしても「存在」というものをもたらす作用やら要素やら、そういったものを見つけ出すことはできないのである。
所与としてのい純粋経験、「単なるあれ」には、ほかの経験と結びつき、さまざまな役割を果たしうる能力ないし潜在性が備わっている(大厩氏、176ページ)
・・・というふうに、経験そのものの「性質」を分析して(引き算して)見出すようなものではないのだ。「能力」あるいは「潜在性」とは後付け的な理屈にすぎない。
 純粋経験のこうした自己展開が生じるのは、主体に与えられる純粋経験がつねに不十分なものであり、その内容を塗り替える「より以上のもの(more)によって不断に縁どられている」(ERE35)からだ。すなわち、「世界が与えてくれる一連の推移的な諸経験」(ERE14)が、所与としての純粋経験に対して外部から押し寄せてくる。これによって経験内容は更新されつづける。(大厩氏、177ページ)
・・・純粋経験の「自己展開」とは、結局のところ、経験はあくまで”所与”の事実、勝手にただ現れてくるだけの事実、「より以上のもの」というのもそれも実際の経験の事実、場合によっては経験と経験の関連づけが見出され(つまり「足し算」)、主客が分離しているという理解をもたらしているのである。ただそのとき物理的存在としての人間という主体ではない観念的(?)な主体というものが経験として実際に現れているのか、それらが「足し算」によって実際に根拠づけられているのか、そこをさらに疑う必要はある。(だからこそヒュームは「知覚の束」という表現しかできなかったのである)

大厩氏は「自我という経験群」(大厩氏、175ページ)という言葉を使われているが、そのような”経験群”とはいったいどこにあるだろうか? そのような用語はジェイムズ自身が使っていないのではないか?(174~175ページに引用されているジェイムズからの引用文に関しても、そのような表現はなされていない)

そもそもが「主体に与えられた」と理解していようがしていまいが、経験は経験、何も変わりはしないのである。先に私が引用したヒュームの文章にあるが、「なにかをただ反省するのと、それを存在するものとして反省するのとは少しも違わない」のである。同様に、ある経験を「ただ現れたものとして捉えようと、それが主体に与えられたものとして捉えようと、何も変わりはしないのである」。
主体に与えられるものとしての純粋経験は「直接的な生の流れ」であり、「この流れが材料となり、われわれは概念的カテゴリーを使って、そこにあとから反省を加える」(大厩氏、176ページ)
・・・となれば、カントといったいどこが違うのか?という話になってこよう。さらに「宇宙の自己表現」とまで言ってしまうと、私が最初に引用した、ジェイムズ自身の「経験を額面通りにとる」という指針といったいどのように”整合性”を保てると言うのであろうか?

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