今年は、
(1)ヒュームとカントの比較:カントは本当に「独断のまどろみから目覚めた」と言えるのか、非常に疑わしいと思います。ヒューム理論がもっている経験論のキモ(ヒューム自身にもブレがあった)を感知しないまま、”妄想的”哲学へ邁進してしまった感があります。
私なりの分類としては、カント、ヘーゲル、フッサールは「妄想系哲学」であると言えると思います。使われる用語が、全く経験によって根拠づけられていない、いったい何を根拠にそう述べているのか、実のところ全く明らかではないのです。
(2)ヒューム⇒ジェイムズ⇒西田(『善の研究』の第一編のみ)という流れで、経験論がいかにして深められていったか、そして何にたどり着けなかったのか、それらをまとめることで純粋経験論がいかなるものなのか、より分かりやすい形で示していきたいです。
ジェイムズは、純粋経験を非常に限定したものとしてしか見ていなかった、時間というものを全くエポケーできていなかったと思います(時間に関してはヒュームより後退しています)。純粋経験というものを恣意的に限定してしまった、それ故に(特に真理問題に関して)プラグマティズムによって補填せざるをえなかったのです。
それを西田は、思惟や意志、知的直観でさえも純粋経験であることを示そうとしました。そこがまさに西田哲学のオリジナリティーであると思います。しかしそれが上手くいかず、様々な矛盾をその理論に残してしまいました。その後の西田の理論は、その矛盾の辻褄合わせ以上のものではないと思います。私は、西田が哲学という学問に残した最も重要な功績は『善の研究』第一編であると思っています。
『善の研究』第一編の分析は、こちらのページからダウンロードできます。
http://miya.aki.gs/mblog/category.html
(3)野矢茂樹著『論理学』分析・・・野矢氏の見解のブレがみられるし、指摘したい問題点もいくつかあるのですが、やっぱり今年は無理かな・・・論理学の問題を解いていく作業は、それなりにおもしろいのですが、やはり時間が必要なので、じっくりやっていきたいです。
以下、2014年の8月に、以前のブログに書いた記事です。
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否定詞が真偽を常に反転させるわけではないということについて:野矢氏『論理学』検証その7
野矢氏は、否定詞が真偽を常に反転させるわけではない、という事実を否定されているわけではない。「無門は昨日道元と寺にいたのではない」という文を例にあげ、これは真理関数的ではないと述べられている。その上で、”「真理関数的ではない,イコール論理的ではない」とはなりません”(『論理学』野矢茂樹著、東京大学出版会、1994年:23ページ)とも述べられている。
最初に述べたように,論理というのは言語のあらゆる局面に浸透しています.そして,真理関数という考え方は,そのごく一部を整理して取り出したものにすぎないわけです.(野矢氏,23~24ページ)
道元 確かに命題論理は極限された場面を扱う,と最初に言っていたが,しかし,それは否定詞と接続詞への語彙の制限ということだっただろう.ところが,いま問題になっているのは,まさにその否定詞が真理関数的に働かない場合がある,ということだぞ.(野矢氏,24ページ)・・・野矢氏は論理学が「現実の推論実践に対する一つの近似」(野矢氏,24ページ)と述べられているが,この問題については一旦ペンディング扱いとなっている。
ならばなぜ、「つまり否定詞とは,文の真偽に働きかけるという観点から言うならば,ある文の真偽を反転させるという働きをもった言葉にほかならないのである.」(野矢氏,16ページ)という説明を先にしなければならないのか、という話になってこよう。
そして、「現実の推論実践に対する一つの近似」という表現にも疑問が残る。論理学における推論も確かに現実における推論実践の一つなのである。要するに、「近似」なのではなく、論理というものの「一部」である、という表現がより的確なのではなかろうか。
厳密につきつめれば、
私たちの体験から導かれた事実関係における真偽→論理抽出
であるのだが、野矢氏がこのことに気づいておられるのか、あるいは、
論理→真偽
という誤った論理学的認識から脱却できていないのか、そこを読み進めながら見極めていこうと思う。
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