2019年2月11日月曜日

経験が「二度数えられる」のは「異なる文脈」ではなく「同一の文脈」によるもの/「関係」の「感じ」など具体的経験としてあらわれていない

いま、ジェイムズ『純粋経験の哲学』(岩波文庫)の「第二章 純粋経験の世界」(および第一章も少し)を、「関係」という観点から分析したレポートを作成しているところである。さっき

山根秀介著「ウィリアム・ジェイムズの多元的存在論 : 「関係」概念をめぐって」『舞鶴工業高等専門学校紀要』 (52)、2017年、55~63ページ

・・・という論文があるのを見つけた。そのうち取り寄せて読んでみたいのだが・・・

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今日は、

八五郎屋の書庫
http://www5b.biglobe.ne.jp/~hatigoro/index.html

というウェブサイトに掲載されている、『ジェイムズ経験論の諸問題』(三橋浩著)の、
第二章 ジェイムズ経験論の中心思想
第三節 純粋経験の世界
http://www5b.biglobe.ne.jp/~hatigoro/REVIEWS%20on%20WJ-spje23.html

・・・について、いくつか指摘しておきたい。

1.経験が「二度数えられる」のは「反対せる文脈」によるものではなく、「同じ文脈」つまり因果的に導かれた主客の世界を前提とした経験の捉えなおし

われわれが意識と内容の問題をとりあげる際に、経験は意識と内容からなりたっているという場合と、経験は意識にも内容にもなりうるという場合とでは、その経験に対する見方が全く異質であることに気づかなければならない。ジェイムズの説明が奇妙にみえるのは、往々にして前者の立場の目を通して判断されている場合が多いからであって、もしわれわれがジェイムズの根本的経験論に親近感をもとうとするならば、かかる姿勢を一時放棄したところからはじめなければならないであろう。(三橋氏)
・・・問題は双方ともに恣意的な経験”解釈”である、ということだ。「引き算」的思考(経験は意識と内容からなりたっている)は論外として、ジェイムズの主張する”経験は意識にも内容にもなりうる”という見解も、経験を「額面通り」に捉えることに失敗しているのである。

経験はどこまでも「経験内容」であり、それが「意識」というものになるわけではないし、「認識する主体」になるわけでもない。

そして「私」というものは、あくまでも「経験内容」として現れるものなのである。
(※このあたりの論点については、拙著“ア・プリオリな悟性概念”の必然性をもたらすのは経験である ~『純粋理性批判』序文分析」http://miya.aki.gs/miya/miya_report20.pdf)Ⅴ.存在は「現象としての物」から因果的に導かれる(18 ページ~)でも扱っています)
われわれは知覚の哲学が一つの存在を外的空間とわれわれの精神の両方に認めるパラドックスに呷吟していたのを知った(三橋氏)
・・・そのようなパラドクスなどどこにもないことは、既に拙著

純粋経験には「意識」も「思考」も「作用」も「証人」もない
~「意識」は存在するのか(W.ジェイムズ著)の批判的分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report12.pdf

・・・で説明した。ジェイムズはしばしば”比喩”で失敗している。”直線と直線との交点”とかいう比喩は具体的経験としてはやはり「額面通り」ではないのだ。そんな「直線」などどこにもない。

結局のところ、部屋があってそこに私がいる、そこに机があって本を読んでいる私がいる、という第三者的存在把握が前提になって、初めてそこに「外的空間」と「精神」、あるいは外的存在物と意識、という分離が成立しているのである。

主客の分離が前提とされて初めて、経験が二度数えられるのである。
「そこから全く異なった線に沿ってかなたへと追求されうる違った過程の一つのメンバー」なのである。「同一の事物は他の経験への多くの関係をもっているので、それは全く異なる連合体系においてもうけとられ、又反対せる文脈contextにも属しているとみなされる。(三橋氏)
・・・という見解は全く的はずれ、経験が二度数えられるのは、因果的に把握された主客の世界によりもたらされるもの、つまり”反対せる文脈”ではなく”同じ文脈”による解釈なのである。
 そこで心的実体ではないところの意識とは具体的に何を意味し、人間の活動においてどのように作用しているかを吟味することは純粋経験や、根本的経験論の理論的解明に決定的な役割を果たすと考えられてくるだろう。そのためにはまずわれわれはジェイムズにおいては意識が流れているという事実を伝える以外のなにものも意味しない点を留意すべきである。純粋経験とは意識の流れが他からのなんらの制約をうけることなく認められる場であり、そこにおいては意識はその対象についての考えと不可分の関係において存在している。従って意識の流れとはわれわれの直接的経験の場においては、あるいはわれわれの精神が実在と一体となっている認識的世界においては、常に考えの流れとして現象している。(三橋氏)
・・・「意識が流れているという事実を伝える」とはどういうことか、結局それは「言葉」なのである。感覚的経験が現れた、それを「伝える」とは言うものの、”経験を額面通りに捉えれば”単にそれを「言語化した」「言語表現した」という事実があるだけで、そこに「意識」というものの「作用」を”措定”する必要などどこにもないのである。


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2.「関係そのもの」の経験はない


次に「関係」についてであるが、
 ジェイムズはそのことを端的に次のようにいう。「われわれは青の感じ、冷たさの感じをいうのと全く同様に容易に、そしての感じ、もしもの感じ、しかしの感じ、によっての感じをいうべきである。」(18)これはまさにわれわれの意識状態の中にあるものであり、考えの推移的部分を形成している。
 考えの推移的部分の強調は客観的には無数に存在する感じとしての関係の支持であり、主観的には考えの流続性の証左である。そして結果的にはそれはわれわれの知性に経験論における結合的関係の存在を認めさせる。このことはさらに純粋経験の世界の理解を容易にさせている。なぜならば純粋経験の世界とは直接的に経験される結合的関係の実在性をもって成立するからである。もし結合的関係が感じとして認められなかったら、経験のもつ文脈は根底からくずれさられるであろう。いいかえれば経験とはわれわれにとって全く意味をなさない抽象的対象として個々ばらばらにとりあげられ、それによってわれわれは経験を外的にしか内省できないことになるであろう。(三橋氏)
・・・関係を「感じ」として具体的経験として扱うのはおかしい。「額面通り」の経験ではない。

「関係」を具体的経験として「額面通り」に捉えるとはいかなることなのかについては、既に

「宇宙」「世界」「混沌・カオス」・・・経験を「額面通り」に受け取らず「抽象的な話」と混同している
https://keikenron.blogspot.com/2019/01/blog-post.html

・・・の記事でも説明した。
われわれは経験をまたずアプリオリに、「に隣接して」を含まずに「と共に」のみから成る宇宙を想像することが可能である。同様に、「に似て」のみから成る宇宙、「の次に」のみからなる宇宙、あるいは、作用性をもたずに「に似て」のみから成る宇宙、「のために」をもたない作用性、「わたしの」をもたない「のために」の宇宙を、それぞれ想像することが可能である。これらはそれぞれ独自に統一性をもった宇宙となるであろう。人間の経験の宇宙は、その時々の各部分において、こうした統一性のひとつであるとともに、すべての統一性の度合いを含んだものでもある。(ジェイムズ『純粋経験の哲学』52ページ)
・・・アプリオリという表現は論外として、私たちは「宇宙」を想像するのではなく、あくまで具体的に「隣接して」いる事物、「似ている」事象、そういったものを観察・経験しているだけなのである。鈴木さんと山田さんが並んで立っている状況、「同じ」碁石が二個並んでい置かれている状況、笛の音が聞こえてきて、「ド」の音から「レ」の音へ変わった状況、そういった具体的場面としての経験が実際にある(そしてそれを「隣接」とか「同じ」とか「変化」とか言語表現した事実が実際にある)、それを「額面通り」に捉える、まさにそのことなのである。
 ところでここに一つ問題が生じる。結合的関係が純粋経験のキイポイントであるとしても、単なる結合的関係の一連的な存在で、考えの流続性が説明されるといわれるのであろうか。いいかえれば、われわれの認識の段階において考えの流続性ないしは連続性という事実の存在が判明されたとしても、そのエネルギーはどこにあるのか不明にされているために、その内的自発性がみいだされない、という問題である。(三橋氏)
・・・つまり、三橋氏の言われるような「エネルギー」というものをそこに”措定”する必要などどこにもないということなのだ。それこそ「引き算」的思考なのである。
もし結合的関係が感じとして認められなかったら、経験のもつ文脈は根底からくずれさられるであろう。いいかえれば経験とはわれわれにとって全く意味をなさない抽象的対象として個々ばらばらにとりあげられ、それによってわれわれは経験を外的にしか内省できないことになるであろう。(三橋氏)
・・・と三橋氏が述べられているように関係が「感じ」として認められなくても「外的に内省」できるのである。外的・内的関係なく(そのようなものは事後的解釈)、具体的映像やら具体的感覚として、あるいは心像として現れている、ということなのだ。

経験を言語表現した事実は、純粋経験の具体的事実として認められるものである。ただ、その経験と言語とのつながりをそれ以上論理的に説明することはできない。経験と言葉とがつながった経験は、あくまでも”所与”の事実、その「理由」とはその経験から「引き算」で導かれるものではなく、あくまでその”所与”の経験から「足し算」でもたらされるものなのである。

そして、「足し算」とは結局のところヒューム的因果関係の構築による「経験則」の構築のことに他ならない。

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